Nに会いに、和歌山へ。1

「待っててね。N。いま会いに行くからね。」
今週は、何度もNに語りかけるように過ごしていた。
たった今、朝の便で関空へ着いたところ。これからバスで和歌山駅に、そしてそこから1時間以上かけて由良という町へ向かう。
実はNは、昨年の桜の咲く時期に亡くなっていた。
およそ1年も過ぎてそれを知らされたのは、もしかしたらNが僕のことを気遣ってのことなのかもしれない。
Nは、僕の性格を知り抜いていた。自分が弱って死んでゆく姿をもし僕に見せたら、僕が悲しみのあまり壊れてしまうだろうと思ったのかもしれない。
結婚をしていたNは、いつも僕に言っていた。「もしもの時には、お前だけは緊急治療室にでも入れるように、奥さんと姉とお母さんに言ってあるから…」
実際に、Nのお姉さんは二丁目にも来たことがあるし僕たちの全てを知っていた。お母さんにも何度も会っていたし、奥さんは、恐らく僕とNとの関係をわかっていたのだと思う。
今の僕にたった一つ心残りがあるとしたら、Nが痛みを感じている時、苦しい時に、ずっとそばにいて手を握りしめていたかったということだ。
どこか知らない遠くへ旅立つNに、いつだって僕がそばにいると言ってあげたかった。

いま手にしているものを、慈しむこと。

祖母の葬儀の時に、母が泣いていた。
その姿を見ながら、まだ学生だった僕も悲しかった。
そして、「お母さんは、なんであれほど泣いているんだろう…」と思っていたのを覚えている。
やがて僕も年を取り、7年前に父が亡くなった時に、昔、母があれほど泣いていた意味がはじめてわかった。
親を喪うということは、僕の想像を遥かに越える悲しみであり、痛みをともなう苦しみだったのだ。
そしていま、かつて自分の生命よりもたいせつに思っていたNを喪い、人生にはこれほど苦しいことがまだあったのか…と打ちのめされた。
人は生まれて、生きて、死んでゆくだけだ。
いま手にしているもの、いまそばにある人を、できるだけ慈しむことだけが、ただ僕たちに出来ることなのだろう。
自分の親であれ、恋人であれ、友人であれ、愛する人に、愛している気持ちを伝えよう。
いずれ愛する人が、その手を離れていってしまったとしても、愛していた、愛されていたという記憶は、温かいものとなって僕たちの中に残り、いつも励まし、支え続けてくれるだろう。

押入れの奥のダンボール箱。

寝室の押入れの奥には、大きなダンボール箱がそっと眠っている。
中には、僕が10年間つきあった前の恋人Nとの旅行や、ふたりで過ごした日々の膨大な写真のアルバムが詰まっている。
何度も行ったふたりの愛するイタリア各地の写真、スペインのお城を泊り歩いた写真、パリやニューヨークにも何度も行ったっけ。パリやバルセロナやフィレンツェで迎えた年明け、京都の割烹の写真、福岡の寿司屋さん、能登半島のドライブ…
7年前にNと別れてから、僕は何度もこのアルバムを処分しようか迷いながら、結局は押入れの奥にそっとしまったまま、中を覗き込むことはなかった。
昔よくNは、「俺が死ぬ時は、このアルバムを一緒に棺桶の中に入れてくれ。俺はそれで十分幸福だから…」と何度も僕に言っていた。
Nには奥さんがいて、Nはそれでも僕の家にほとんど寝泊まりしながら、僕に惨めな思いをさせないように、精一杯努力をし続けてくれていた。
N「お前にだけは、日陰者のような思いをさせたくないから。お前は、俺と結婚したんだから。この先も、ずっとずっと一緒だから…」
僕の母が入院した時は、手作りのお弁当を持って来てくれた。
風邪をひいて高熱で僕が会社を休むと、自分の仕事なんかほっぽらかして車で僕を迎えに来て、自分のかかりつけのお医者さんに連れて行ってくれた…。
太陽のようなあの笑顔を、もう二度と見れなくなる日がこんなに早く来るなんて、思っても見なかった。
やさしい顔に触れることも出来ず、大きな身体にハグしてもらうことも、もう叶わなくなってしまった。
僕の人生の中で、あんなに誰かに愛されて、あんなに完全にひとりの人を愛していた10年間はなかった。そしてそれは、Nも同じ気持ちでいてくれたと思う。
あまりにも勝手な言い方だけど、Nが目を閉じる時に、僕と過ごした幸福な時間を、どうか一瞬でも思い出していてくれていたらと願う。
ありがとう。N
またね。

小さなもの。

僕の家の洗面所には、Kが来た時のためにKが使用するコンタクトレンズのケースが2つ、ぽつんと置かれている。
検査技師という仕事柄、雑菌を嫌うKは、その左右のコンタクトレンズのケースが棚に直に触れないように、キッチンペーパーを小さく折り畳んで敷いていた。
Kが金曜日にノンケの友人と熱海に旅行に行く時に、家の洗面所からコンタクトレンズのケースも持って行ったようだった。
そして日曜日に、大分に向けてKが新幹線に乗った後、洗面所にコンタクトレンズのケースがなくなったままだった。
それに気づいた僕は、なんだか急に寂しくなった。
いつもは、なんでいちいちキッチンペーパーなんか下に敷くんだろう?と思っていたはずなのに、丁寧に折られた小さなキッチンペーパーでさえ、今となっては懐かしく感じられた。
僕は毎日、そんな小さなケースを時々横目で眺めながら歯を磨いたり、髭を剃ったりしていたのだ。
誰かとつきあうと、今までなんでもなかった小さなものが、自分にとって意味を持つことがある。

親戚のおじさん。

週末にKがやって来たのは僕に会うためではなくて、学生時代のノンケの友達と二人で熱海に旅行するのが目的だった。大分には別府や湯布院があるのに、なぜにわざわざ熱海に来るのか?と疑問に思ったが、熱海にどうしても行ってみたいそうだ。
友達よりも1日早めに東京に入って僕の家で一泊してから、熱海で広島からくるノンケ君に合流して一泊した後、今度は二人で東京を観光するという予定。
東京のホテルはこの時期とても混み合っているようで、なかなか希望の安いホテルが取れなくて、Kは僕にホテルの予約を頼んできた。
なんとかお茶の水のホテルが取れて、東京ではKだけ僕の家に泊まることにしたのだけど、ノンケ君には僕のことをなんて言ってるのかと聞くと、
「親戚のおじさんの家に泊まると言ってある」と、返事が返って来た。
「ホテルも親戚のおじさんが取ってくれるって言ってある」
「なんで東京に住んでいるの?とか聞かれたらどうするの?」
「本家に婿養子に入ったけど、離婚して東京に住んでるおじさん」と答える。
これは以前、福岡の寿司屋さんで二人の関係を聞かれた時に、Kが咄嗟に思いつきで話した僕たちの相関図だ。
16歳違いの男同士が一緒にいること自体、よくよく考えると世間ではあまり見かけない光景だし、保守的なKからしたら、変な疑いをかけられることをとても気にしているようだ。
そして僕は、そんなふたりの微妙な年の差に対して、他の人たちが反応すること自体、とても面白いと思っている。
時々、お揃いの靴とも取れるニューバランスを二人で履いていると、電車なんかでも足元を見られる気がする。
僕はそんな人たちの顔を見ながら、ニッコリと微笑んでみたくなる。

桜の木の下のふき。

赤坂の駅を出て、行きつけの美容院に向かって歩きながら、ふと向かいの土手の大きな桜が目に入った。その桜の下には、ふきのとうが出て、やがてふきが生い茂る。
16年間ずっと僕の髪を切ってくれていた美容師さんは、毎年その桜の下にふきを摘みに行っては、きゃらぶきを作って僕におすそ分けをしてくれた。(そのきゃらぶきはとても味が濃くて、しょっぱかったのだけど…)
美容院に入ると、今は僕の髪を切ってくれる若い女の子が言った。
「T先生が亡くなられて、ちょうど一年経ちましたね…」
「それにしても、T先生、いったい何歳だったんでしょうね…?私たちには本当の年を教えてくれなかったから…」
僕たちよりも昔のゲイは、源氏名を使う人も多く、身元を明かさずに生きて来た人たちが多かったのだ。
ゲイの友人と知り合い仲良くなって、ふと暫く会わなくなって、会いたいと思っても、誰もその人の本名も住所もわからない…といったことはよくあることだった。
Tさんは亡くなった後、お兄さんや甥っ子さんが遺体を引き取りに来られて、ひっそりと葬儀も済ませられた。
一緒に暮らしていた若い恋人は、葬儀にも出られず、家を追われ、まるで存在しないかのように扱われた。
亡くなったことを聞いた僕たちは、お墓を聞いて、せめて御線香をあげに行きたいと思って親族に問い合わせたのだけど、どうか、そっとしておいてくださいという返事が返って来た。
Tさんのようなゲイは、この国でもたくさんいるのではないかと思う。親族には理解されないため、ゲイの友人などもまるでいなかったように扱われてしまう…。
友人たちが葬儀に来ることもなく、ひっそりと埋葬されたTさんのことを思いながら、桜の下のふきのとうに向かって、そっと手を合わせた。
「僕たち、みんな同じなのにな…」と。
★僕の美容師さんhttp://jingumae.petit.cc/banana/2169693
★もしもの時にhttp://jingumae.petit.cc/banana/2174483

LとJ、シンガポールカップルがやってきた。

ふたりは、昨年の8月の終わりに一緒に九州旅行をしたシンガポール人のカップル。11年間つきあって今もアツアツでいる。先々週あたりは、しばらく北海道のニセコや札幌に来ていることは知っていた。なぜなら、
「ただし!札幌で一番美味しいお寿司屋さんを20:30から予約しておいてくれ」とか、
「ただし!小樽の美味しいお寿司屋さんを、金曜日12:30に予約しておいて!」とか、
様々な予約の電話を僕が代わりにしていたから…。僕の名前で予約してあるところに、日本語のまったくわからない二人がやってくるのは、お寿司屋さんにとっても???という感じかもしれない。
そして土曜日、「ただし!これから東京に着くから飲みに出ない?」との連絡が。
僕は彼らの旅程をまったく把握していなかったのだけど、この後は台北に5日間行った後、東京に一週間戻り、その後福岡に飛び数泊してから黒川温泉に行き、その後別府に行き、宮崎で数泊、鹿児島で数泊してから、名古屋に飛び、桜の咲く頃には京都に入り(ここで僕と合流)、東京に帰ってくるという6週間の旅行なのだ。
昨年3月くらいからずっと休暇で世界中を旅行しまくっている二人は、この6週間の旅が終わると、やっと仕事を始めるとのこと。ずっとLは、もうリタイアしようかな…と迷っていたみたいだけど復帰するようだ。
僕の毎日の暮らしと、彼らの旅行三昧の暮らしを今更比較してもしょうがないけど、6週間の旅行なんて聞くと、やっぱりため息が出るものだ。彼らはバリ島にコテージを持っていて、いつでも僕とKで遊びに来いと言ってくれるのだけど、僕たちにとっては、夏にまとまった休みを取って二人で旅行に行くことさえ、なかなかままならない。
ふたりは、「お土産だよ」と言って、エルメスのシャワージェルを僕とKにくれた。
「これでふたりでお風呂でエッチな時間を楽しんで!」
そんなことするわけないのだけど、エルメスの物なんてプレゼントされたのは生まれてはじめてかもしれない(Kはきっと、エルメスが何かも知らないと思う)
また、来週!と言って去って行ったふたりは、桜の咲く京都を楽しみにしている。

OUT IN AMERICA(OUT IN JAPAN 1)

高飛び込みのゴールドメダリストGreg Louganis

43年間カップルのふたり

18歳のふたりは15歳の時カミングアウトしている

僕のたいせつな本の中に、『OUT IN AMERICA』という写真集がある。
この本は、タックス・ノットのタックから譲り受けたものだ。
有名なゲイ雑誌『OUT』の編集者が作ったこの写真集は、アメリカで80年代に発売されたものだけど、今でもこの写真集を開けると、静かな勇気としみじみとした感動をもらえる。
中には、様々な年齢の人々がその人のバックグラウンドとともに等身大のまま、自分がゲイやビアンやセクシャルマイノリティーであることを公表しているのだ。
80年代に活躍したカルチャークラブのボーイ・ジョージや、MACのモデルをはじめて男性でやったル・ポウルなんかも映っている。
どこまでも続くニューヨークのパレードのレインボーフラッグや、派手なドラァグクイーンたちも…。
高飛び込みのオリンピック金メダリストGreg Louganisは、愛犬のグレートデンたちと輝くような笑顔を見せているし、43年間カップルであるSAGEのメンバーであるふたりは、いつ見てもこの世界に『愛』というものがあることを教えてくれている。
※この写真集は、誰でも見ることが出来るように、irodoriの本棚に置いてありますので、ぜひ気軽に見に来てください。

カミングアウトしてますか?

「カミングアウトしてますか?」と、テレビ局の取材でいきなり聞かれた。
渋谷区で可決を目指している『同性パートナー条例法』に関して当事者の話を聞きたいということで、僕は、反対している人たちや知らない人たちにとって、LGBTや今回の条例のことを知る機会になればいいな…くらいの気持ちで参加した。妹的存在のGや弟的存在のFとともにBSのテレビ局の取材に応じたのだ。(今思うと、Gによる僕のアウティングだったのかもしれない…汗)
僕「会社ではみんなにカミングアウトしているわけではなくて、知っている人は知っているし、聞かれたら答えるようにしています」と答えた。
(実際の放送ではこの場面はカットされていたのだけど、「僕には年下のパートナーがいるんです」というようなところが映っていた)
テレビの放映があった翌日、会社に行く時にちょっとドキドキした。「やっぱりあの人、こっちの人だったのね…」などと言いながら、右手を顔の反対の口元に添える古典的なジェスチャーも浮かんだりしていた。
でも、BSだから誰一人見ていなかったのか、今のところ話題に触れる人はいない。(もしかしたらみんなとっくに知っているから、なんの特ダネにもならないのかもしれないけど…)
今回、この条例が可決されたからといって、名乗りをあげることが出来る人は、ほんの一握りのカミングアウトしてもよいと考えている人たちなのだろう。そう考えると、この条例はもしかしたら、多くのセクシャルマイノリティーの人たちにとって直接的には関係のないものなのかもしれないとも思う。
そうであったとしても、今回この条例が可決されることを願っている。
それは、僕たちの次の世代にとって、より生きやすい世の中への一歩になるに違いないと思うからだ。
今、僕の周りにいる友人たちは、持てる力を振り絞って、今回の条例法を通すために一丸となって動き回っている。

stay weird, stay different

「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」はゲイの数学者アラン・チューリングを描いた映画。先日のアカデミー賞受賞者のスピーチの中でも、「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」で脚色賞を受賞したグレアム・ムーアのスピーチは感動的だった
皆さんありがとうございます!
アラン・チューリングは、
このような舞台で表彰されることはありませんでした。
でも、私はいま立っています。
これは不公平ですよね。
なので、短い時間ですがメッセージを伝えたいと思います。
私は16歳の時、自殺未遂をしました。
自分は変わった人間だと思っていたし、
いつも居場所が無かったからです。
でも、私はいまここに立っています。
かつての自分がそうであったように、
この映画を、そういう子どもたちに捧げたい。
自分は変わり者で居場所がないと感じている若者たちへ。
君たちには居場所があります。そのままで大丈夫。
そして、いつか輝く時が来るんです。
だから君がこのステージ立った時には、
このメッセージを次につなげて欲しい。
本当にありがとう。