松茸ごはん

東京に行ったついでに、帰りがけに高島屋に寄って松茸を買ってきた。

普段東京にいた時でも松茸を買うことはなかったのだけど、宮古島に来てからなぜか秋らしい季節のものが食べたくなったのだ。

それと、Kが土瓶蒸しは食べたことがあるけど、松茸ごはんはほとんど食べたことがないと言っていたので、一度一緒に食べたいと思っていたのだ。

松茸ごはんは松茸の出汁があるから、薄口醤油と塩で味付けをして、お出汁は必要ない。

土鍋が蒸気を吹く頃には部屋中に松茸の香りが広がってなんとも贅沢な気分になる。

茶碗に装って松茸ごはんを口に運ぶと、美味しいという気持ちと一緒に小さな頃に家でよく食べていた松茸ごはんのことが思い出された。

父は松茸が好きで、この時期週に何度も松茸ご飯が食卓に並んだ。

僕は松茸の匂いがあまり好きではなく、何でこんな臭い食べ物が好きなのかさっぱりわからなかったものだ。

それがどうしたことか、大人になって京都などで松茸を食べるようになりその美味しさに改めて気づかされた。

僕が子どもの頃の我が家は裕福な家ではなかったけど、父は無理をしてでも松茸を僕たちに食べさせようと思って買ってきていたのだろう。

松茸を食べると、父のことを思い出す。

叔母に、ありがとうを。

今日は母のすぐ上の姉である叔母に会うために、千葉県松戸市を訪れた。

駅前で母と待ち合わせのつもりが電話がかかってきて、すでに叔母の家にいて駅前に向かっているので昼食を食べるお店に行きましょうとのこと。

叔母は84歳で若干痴呆が進んでいる。思い出せないというよりも、たった今覚えていたことを片っ端からすぐに忘れてしまうような感じだ。

今は毎日ヘルパーさんが家に来てくれていて、掃除をしたり薬を飲ませたり、身の回りの世話をしてくれている。僕の従兄弟も泊まり込みでいるようだけど、昼間は働いているので見ていることは出来ないからだ。

僕は宮古島への移住にあたり、お世話になった叔母に会っておきたいと思っていたのだ。僕が小さな時から従兄弟とは兄弟のように育ったので、毎年夏休みには熱海や伊東の温泉がある保養所に出かけていたのもこの叔母の家族と一緒だった。

お店に入る途中、叔母が立っていたので声をかけると驚いていた。「ただしくん、まだこんな小さかったのに…」と、手を自分の胸くらいにあげて笑った。叔母の心の中では僕はまだ小学生のようだった。

食事をしながら小さな頃の思い出話をする。叔母はちゃんと覚えていて懐かしそうに笑っている。でも、少し経つと話した内容は忘れてしまうようで、また同じ話を繰り返している。

店を出て、叔母が僕の腕を掴みながら少し歩いた時に、叔母に昔の話をし続けた。

「叔母さんが母にやさしくしてくれたから、僕たちちゃんと大学までいけたんだよ。ありがとうね」

「私はやさしい旦那がいたから幸せだったの…でもね…お母さんは苦労したのよ…」

「おばさん、ありがとうね。本当にありがとう」

叔母は僕の腕を握りしめながら笑っていた。

叔母は妹の母を苦しい時にいつもそばで支えてくれた人だ。自分の着る物には頓着せず、会うたびに母や僕たちにいつもお金を渡してくれた。

「ただしくん、お母さんにやさしくしてあげてね」

叔母は呆けていってしまうとしても、叔母のやさしさはいつまでも僕の心に残り、僕や母を今でも守り勇気づけてくれている。

帰り際、叔母に手を振ると、「ただしくんまた会えるわね?」とニコニコしながら僕を見送ってくれた。

海という奇跡。

海のお腹はほんのりピンク色で、皮はまるで一枚の薄皮のようで、その下に血や内臓があるのかと思うと怖くなるくらい柔らかい。

仰向けになった海のお腹を触りながら、海がこの壊れやすい繊細な身体で今日も生きていてくれることを奇跡のように思う。

時々全く動かなくて、寝息も感じられないような時に、眠っているのかほんとに生きているのだろうかと思い海に近づいてみることがある。

海は静かに息をして呼吸も小さく寝ていることがわかると、この小さな命が今日も生きていることをありがたく思う。

素直で、やさしくて、人も犬も大好きだから誰にでも近寄っていく疑うことを知らない海を、人間の不注意で酷い怪我を負わせてしまったことが悔しくてたまらない。

その包帯姿があまりにも辛いから、何度も抱きしめて「ごめんね。ごめんね。こんな痛い目に遭わせてしまってごめんね。海」と泣いてしまう。

海は僕の思いなどわからないだろうけど、僕の涙を一生懸命に舐めてくれる。

海は、僕にとって奇跡であり、この世界においてありえないような純粋でやさしい存在。

高揚と不安。

宮古島への移住を計画して、家を探したり、引っ越しの手配をしたり、リフォームの相談をしたりしながら、ワクワクする高揚感はあるものの、思い通りにいかないことも多々ある中で、たびたび恐ろしいほどの不安に襲われる日が続いていた。

高所恐怖症の僕が、空を一人で物凄い勢いで飛んでいる夢を見たり、海で遊んでいたらKと海(犬)がいなくなってしまって、探したらふたりとも海に沈んでいて必死に救い出し人工呼吸をしたら蘇る夢を見たり、真夜中にはっとして目覚めて一人で震えているなんてこともあった。

そうでなくても日中に、「退職金が僕の計算したものの半額くらいだったらどうしよう?」と思い始めたり(所得税と来年半年分の住民税ががっぽり引かれるのだけど、その最終的な額は未だに出ないため自分で計算するしかなかった)、「決済をする時に、トラブルがあってうまくいかなかったらどうしよう?」と考えたり(沖縄にメインバンクがないため、決済をどこでするか方法を探しているところ)、得体の知れない不安に襲われることが度々あった。

「9割の不安は現実には起こらない」などと言われるけど、「その1割だったらどうしよう・・・?」とまで思ってしまうこともあったのだ。

人生の中で、30年近く勤めた会社を辞めるなんてこともそうそうないし、家を購入するなんてこともなかなかないことだと思う。それに、新しい仕事を始めようというのだから、先がわからないことだらけで見えない部分がとても多いのだ。不安にもなるだろう。

今日、会社から通知が来て、驚いたことに、僕が計算したそっくりそのままの数字が退職金の明細に記入されていた。それを見て僕は奇跡が起こったように喜んだのだ。「ああ、大丈夫。ここで神様は僕に試練を与えなかったんだ・・・よかった・・・」と。

こんなワクワクも不安もすべてはみんな、神様が僕を楽しませてくれているのだと今は思うようにしよう。

そして、次の不安が起こった時も、きっと大丈夫。どうにかなる。と思えるように。

思い出すのは、父のやさしさ。

先日、新幹線に乗った時に4両目に乗ったら、3両目との間に喫煙ルームがあるようでそこはかとなくタバコの臭いがした。

その臭いを嗅いだ時にふと、「あ、父の臭いだ・・・」と思ったのだ。

そして、不器用な父を思い出した。

僕が働き出して数年した時に、大きな企業の仕事ばかりで夜中まで残業が続いた時に、肝臓の数値がおかしくなって即入院したことがある。

急性肝炎と診断されたものの結局ウイルスは発見されなかったのだけど、二週間絶対安静で入院をしたのだった。

父はそんな中、新宿の女子医大病院に毎日僕の様子を見にやってきた。

父は仕事の後や途中で来るようで、面会時間に慌てて駆け込んでくることもあったし、面会時間が終わった後にこっそりと忍び込んでくることもあった。

「お父さん、僕は大丈夫だから、そんなに毎日面会にこなくていいよ」

と僕が言うと、少し置いてから父は言った。

「お前も自分の子どもを持ったらわかるよ」

そんな言葉を僕は今でも思い出して、「自分の子どもは持つことはなかったけど、お父さんの愛情は身に染みてわかるよ」と今では思う。

70歳で逝ってしまった父に、もっとやさしくしてあげられたら良かったのにと、今となってはどうすることもできずに悔やんでばかりいる。

家を探していたら、気づいたこと。

今日、とてもショッキングなことがあった。

家探しを始めてから、すぐにとてもいい感じの物件が出てきて高揚していたのだけど、内覧の手続きをしようとメールを打った後に、「この物件は商談中になりました」と返信があった。

それも縁なのかと思いつつ、宮古島を訪れた時にその家を見に行ったのだ。

するとすぐに向かいの家からおじいが出て来て、「家を見に来たのかね?」と聞いてきた。

「そうです。素敵な物件だったので住みたかったのですが、先約がもう交渉に入っているみたいで…」

「じゃあ、もしだめになったら連絡するから電話番号教えといて」

そのおじいは大家さんだったみたいで、電話番号を教えて物件を後にした。

その後、数日経ってからおじいから連絡があり、「今月で片がつかなかったら俺も決めるよ」

そんなメッセージで「え?もしかして可能性あるのかな?」と浮かれ、Kと2人でもう一度物件の内覧に行ったのだった。

東京に帰ってきて、そろそろ月末だなあと思いながら不動産屋に電話をすると、もう順調に契約に向けて手続きは進んでいるとのこと…_| ̄|○

その電話に打ちひしがれて、「この先あんないい条件の家は見つかるのだろうか…?」と不安に包まれてしまった。

Kに空を告げると、「あら、残念だね😣でもまた違うところか他にやりたいことができるかもしれないから🐩大丈夫だよ!」とすぐに返信が返ってきた。

そして夕方、海と散歩をしながらふと思ったのだ。

僕は、外側の家を必死になって探していたけど、「内側の家はこんなにも素晴らしい宝もののような家があるではないか!」と。

Kと海がいる。

それだけで僕たちの家は世界一温かく幸せなのだと。

そう思えたら、きっと大丈夫だと思えたのだった。

幸せはすぐそばに。

2時過ぎに目が覚めて、そのまま色々なことに思い廻らせて朝までほとんど眠れずに過ごした。

朝ごはんを食べ終わって、Kが出かけて行く前にまだほんの少し時間があったので、二人でソファに座っていたらKが僕の耳を見て綿棒を取りに行きソファに座った。

僕はKの太ももに横向きになり耳を掃除してもらう。耳を掃除してもらう時間は僕にとって至福の時間だ。

すると、それを見ていた海がいきなりソファに飛び乗って僕とKの間に割って入ってきた。まるで自分だけ仲間外れにされたくないとでも言うように。

そして、僕の耳をペロペロペロペロと舐めはじめた。

海はきっと、僕の耳が痛いか何かと勘違いしたのだろう。とにかく自分が舐めれば、僕の耳の痛みも怪我も全部治ると思っているようだ。

僕はあまりにもくすぐったくて吹き出してしまい、Kも耳掃除ができなくて「海!やめて!」と言いながらゲラゲラ笑っている。

それは、Kが出かけるまでのほんの数分のこと。

幸せな瞬間は、すぐそばにあふれている。

生活保護受給者やホームレス。

僕がまだ10代や20代で、ニューヨークにもしょっちゅう旅行をしていた頃、街にはたくさんのホームレスが溢れかえっていた。

地下鉄に乗っていると紙コップを持って小銭をもらえないかと言って来たり、街中でもホームレスがいたるところにいて座り込んでいたり、メッセージの書かれたボードを持っていたりした。

東京の街中にもホームレスはいて、渋谷の宮下公園や代々木公園なんかにはたくさん暮らしていたし、隅田川沿いにもブルーのビニールシートでできたテントが並んでいるのが当たり前の光景だった。

僕はその頃、「なんで働かないんだろう?」と思っていた。

でも今考えるとその頃の僕は、人々の表層的な部分しか見えていなかったのだ。

今、年を重ねて思うことは、人生には突然予期せぬ荒波が押し寄せたり、結婚生活が破綻したり、大切な家族をある日失ったり、突然仕事を解雇されたり、女手一つで子どもを育てなければならなくなったり、人にはそれぞれ様々な出来事や事情があるということ。

どんな状況にいる人でも、それぞれの人生がある中で生きているということ。

自分の物差しだけで決めつけることではなく、自分とは違う人たちのそれぞれの人生を想像し、敬うことがとても大切なのだと思う。

生活保護受給者も、ホームレスも、皆我々と等しく尊い生命である。生活保護を受ける権利があるし、ホームレスも守られる権利がある。

お金があろうがあるまいが、税金をいくら納めていようがいまいが、そんなものは関係なく皆等しく大切な生命なのだ。

オリンピック

僕は、東京オリンピックが行われて、アスリートにとってはとても良かったと思っている。

病院で勤めているKは、病床が逼迫していることをいつも気にしていて、オリンピックの開催も最後まで懐疑的だった。

オリンピックの開会式と閉会式を見て感じたことは、演出家による企画など全く必要なかったのではないかと言うこと。今回のオリンピック自体が非常事態下でやったのだから、凝った演出や企画など何も必要ないと思ったのだ。

聖火台に火が灯ることと、世界各国のアスリートたちが手を振りながら入場してくるだけで胸に迫るものがあったと思うし、戦いを終えたアスリートたちがリラックスして歩いているだけで、その勇姿を褒め称えたいと思えた。

逆に言うと、他のすべての演出はアスリートの前では霞んで見えたのだ。

アスリートたちの戦いを見ているだけで、演劇や音楽会に行っているような感動と興奮を味わうことができた。それもそのはず、人類は何千年もの間、劇場を作っては、人間同士の戦いを観戦してきたのだから。

器が割れた時に思うこと。

先日、お猪口を上の棚にしまおうと、重ねた2つのお猪口を持った時に、ふと手が滑って下に落としてしまった。

すると、お猪口は無事だったのだけど、下にあった浅めのどんぶりが割れてしまった。

家の器やグラスはペアか偶数で揃えているので、一つが割れて使えなくなると中途半端になってしまう。

探してもう一度買い揃えようと思っても、既に販売されていなかったり、お店が遠くて買いに行けなかったりもする。

熱海に引っ越して来てから、クラスを一つ割り、どんぶりを一つ割った。小皿とお猪口を一つずつ欠けさせてしまった。

大切に使っているつもりが、洗ってしまう時などふと他のことを考えていたり、ふたつのことを同時にしようと思っていると不注意になってしまうようだ。

その度に自分では酷く落ち込んでしまうのだけど、「形あるものはいつか壊れる」と、なんとかそう言い聞かせてきた。

僕が大切な器やグラスを割ってしまった時には、Kはいつも穏やかなままでいてくれる。

外出先などで何かをこぼしたり、落とした時も、Kは僕を責めることはなく気遣ってくれるし、僕もそうでありたいと思っている。

大切なものが壊れた時や、不意に事故が起こった時に、その人間のやさしさや本質が感じられるものだ。