はじめてのドッグトレーニング。

先日、函南のドッグランに行った時に、6頭くらいの様々な犬を連れたドッグトレーナーの女性に会った。

風の強い日で、他にもう一人の人がビーグルを連れて来ていただけだったけど、そのビーグルが吠えまくりながら海を追い回し、海は怖がって逃げ回っているのをその女性が助け舟を出してくれた。

ドッグランでは本当は暗黙のルールがあって、あまりしつこく犬が追いかけたり吠えたり噛み付こうとしたりする場合は人間が介入して止めなければいけないのだけど、このビーグルのオーナーはお構い無しで、海のトラウマになったら困ると思い少し怒ってしまった。

海は穏やかな性格なので、吠え続けられても吠えかえすことはなく、噛まれても噛み返すこともしなかったため良かったのだけど、好戦的な犬だったなら喧嘩になっていただろうと思う。

先週末に犬のしつけ教室を周り、海は噛んだり吠えたりするわけではないので学校は必要ないと言われたのだけど、この女性にしばらく海のトレーニングをお願いすることにした。

このトレーナーさんに決めたのは、話した感じが良さそうだったのと、我が家までトレーニングをするために来てくれるため、毎週末に海を連れて行く手間が省けるから。

初めてのトレーニングは、クレート(犬が入る持ち運びのできるプラスチックの箱)に大人しく入る練習。海は前はこのクレートにすんなり入ったのだけど、最近はドライブに出かけてもクレートになかなか入りたがらないので手を焼いていたのだ。助手席で僕の上に座っているのを好んでいるのだけど、スーパーなどに寄った際には犬の入店はできないので、大人しく車の中で待機していてほしいからだ。

お菓子を使いながらクレートに入れて、しばらく出さずに置いておく。少しずつ離れて隠れても鳴き出さないように声をかけながら、クレートに入っていられる時間を少しずつ伸ばして行った。

ドッグトレーナーさんの右手に絆創膏が付いていたのでどうしたのか?と尋ねると、柴犬の噛み犬に思いっきり噛まれたとのこと。絆創膏が剥がれた手の平には穴が空いていて、傷跡が生々しかった。

噛み犬の矯正は、1年以上かかる場合もあるようで、根気強さが求められるのだそう。「こんなの序の口ですよー」と言って見せる右手の手のひらは、大きく縫った跡があった。その昔、保護犬を教育する施設で働いていた時に、レトリバーに噛み付かれて骨の中まで穴があくほど噛まれて大手術をしたんだそうだ。

その犬は殺処分になったようだけど、もともとその犬は飼い主さんから日常的に虐待を受けていて、人間のことを信じることができなくなってしまっていたらしい。そんな話を聞きながら、殺されてしまった犬のことをかわいそうに思った。

噛み犬になるには、それなりの理由がそこにあったのだ。

トレーニングの後、疲れて爆睡

海とはきちんと信頼を築き上げていけるようにと改めて思ったのだった。

鶯と啄木鳥。

我が家の周りは、山なので、毎日色々な鳥の声が聞こえる。

シジュウカラやメジロはたくさんやって来るし、今の時期は「ホーホケキョ」と言う鶯の鳴き声で目覚める。

鶯は、声が聞こえても実は下の藪の中にいたりするので、なかなか見えることはないのだけど、真剣に探したら見つけられると思えるほど、そこら中に鶯が鳴いている。

家の前の大木には、鳥が穴を開けた跡があって、そこに啄木鳥(キツツキ)がやってくる。

啄木鳥は木の幹を一生懸命つつきながら、虫を探しているのだろうか。

鳩のような大きさで、体の上がグレーでお腹が渋いレンガ色のような鳥もよく中庭にやってくる。この鳥を調べたら、イソヒヨドリと言う鳥で、ヒヨドリとは別の種類らしい。

ここに住んでいる間に、出会う鳥の名前や習性を知りたいと思う。

海を散歩しながら、僕はいつも鳥の声に耳を済ませている。

生まれながらにあるもの。

海は、生まれてまだ4ヶ月と少ししか経っていないのに、すっかり僕たちの家族になった。

LLBeanのベッドを買ってみた

何をするにもほとんど一緒で、料理をしていてもそばで見ているし、昼寝をしても横でくっついて寝ている。

僕やKがくしゃみをすると、驚いてすぐに顔色を伺いに来るし、どこかが痛い時には、その表情や声で察知して心配そうに顔を舐めるのだ。

お母さんのお腹の中からこの世界に生まれてきたばかりなのに、海はやさしさを持っている。

この世界には、やさしさがはじめから存在するのだ。

大寒桜。

熱海では、熱海桜が1月に咲いて、2月には大寒桜が満開になる。

伊東に向かう道には、伊東小室桜がところどころで咲くのだけど、小室桜は先週で大体終わりを迎え、今咲いているのは大寒桜。


熱海桜は花いろが濃く、どこかぼてっとして八重桜を思わせるボリュームなのに対して、大寒桜は小ぶりながら軽やかでかなりソメイヨシノに近い印象を受ける。

これだけ1月2月に桜が咲いていると、春が随分早くから町中に感じられる。

桜と梅が一気にやってくるのが熱海の春なのだ。

「結婚の自由をすべての人に」訴訟第6回期日。

コロナの影響で延期されていた裁判が東京地裁で行われた。

前回、裁判官と僕達原告や弁護団が言い合いになり、揉めに揉めたことはここに書いた。

本人尋問を必要としない裁判官に対して、尋問をして欲しいと我々が食い下がったのだ。

今回の裁判では、予め国側から書面が届いていて、その中に、尋問がある場合、反対尋問をする可能性は排除しないと書かれていたこともあり、本人尋問をやる可能性が出て来たのでこちらとしてはここで尋問に対して小競り合いをせずに行くことにしていた。

今回の一番の目玉は、永野弁護士による代理人意見陳述だった。この意見陳述を聞きながら、涙が流れた。ぜひ全文をお読みいただきたい。(以下、全文)

さる2021年1月18日、原告の佐藤郁夫さんが逝去されました。
佐藤さんは、同月4日に脳出血で倒れて入院されていましたが、回復かなわず、同じく原告であるパートナーのよしさんと妹さんらが見守る中、息を引き取られました。享年61歳でした。

佐藤さんは1959年生まれです。佐藤さんが自らの性的指向が同性愛であると気づいた1970年代は、同性愛は全くもって異常、変態とされていた時代です。
テレビでは同性愛者をホモ、オカマと笑っていました。
学校の教師も同性愛を嘲笑していました。
広辞苑には同性愛は異常性欲と書いてありました(甲A25の1)。
精神医学の教科書には同性愛は病気であると書いてありました(甲A338)。
そんな時代の中で、佐藤さんは、自分がゲイであることは誰にも言えないと思うようになったといいます。

しかし、そんな時代の中にあっても、佐藤さんはわずかな情報を頼りに、他の同性愛者との出会いを求め、行動しました。交際相手も見つけました。一人の同性愛者としての人生を歩み始めたのです。
ただ、佐藤さんは自分がゲイであるということを隠しているのを苦しいと感じていました。本来の自分ではない生き方をするのは窮屈だ、そう感じた佐藤さんは、30代の頃、会社の朝礼で自分がゲイであることを思い切って話します。そして、その後の佐藤さんは、ゲイであることをオープンにして生きていくようになっていきました。

同性愛者が差別や偏見に抗して、自らの性的指向を明らかにすること。このカミングアウトという実践は、1970年代後半頃から始まった日本の同性愛者権利擁護運動の中で語られるようになっていたものです。しかし、当時の佐藤さんは、運動との接点があったわけではありません。佐藤さんのカミングアウトは、佐藤さんが自ら考え、選択した行動です。なぜ佐藤さんがカミングアウトという選択をしたのか、その理由について佐藤さん自らのお話しをうかがうことは最早できません。ただ、手がかりはあります。

カミングアウトしたいと考えるセクシュアルマイノリティを撮影し、そのポートレートをウエブサイト上に掲載する「OUT IN JAPAN」というプロジェクトで、佐藤さんはこう語っています。

セクシュアリティに関係なく、生きていることが尊い。
カミングアウトすることが素敵なのではなく、
自分らしく生きることが素敵なのだと思う。
もしも身近な人が理解してくれなくても、
必ず理解してくれる人は見つかるから。
自分らしく生きて欲しい。

佐藤さんは自分らしく生きていきたいと考え、実践してこられました。そして、自らがゲイであるということは、自分らしい人生を生きていく上でその根幹に位置している、そうお考えであったのでしょう。
自らの性のあり方が尊重されることは、人格的生存に不可欠の利益です。佐藤さんは、法律を学ばなくとも、そんな憲法の理念を自らつかみ取って生きてこられたのだ、そう思います。

佐藤さんは、第1回口頭弁論期日において意見陳述を行いましたが、この裁判に原告として参加した理由についてこう述べています。

「同性同士の婚姻が認められることは、私が若いころに持っていた、自分自身に対する否定的な気持ちを、これからの世代の人たちが感じなくてもよい社会にすることなのです。」

また、佐藤さんは、佐藤さんとよしさんが地元の区役所に婚姻届を提出したときに、区役所職員が、婚姻届は不受理になると思うが、結婚記念カードを発行することができるという言葉をかけてくれたというエピソードに触れて、こう述べています。

「まるで結婚が認められたような気持ちになり、とても幸せを感じました」
「いつか本当に婚姻届が受理されたら、きっと感動して泣いてしまうだろうと思います」

冒頭で述べたとおり、かつて同性愛は、異常、変態とされ、同性愛者はその存在を否定されてきました。そして、若い頃の佐藤さんがそうであったように、同性愛者自身が社会が付与する負のレッテルを内面化し、自分の性のあり方に否定的な感情を抱いてきました。
そんな同性愛者にとって必要なのは、社会からの肯定であり、承認です。佐藤さんが結婚記念カードにすら幸せを感じたのは、ささやかとはいえ、社会からの祝福と承認の契機がそこにあるからでしょう。そして、社会的承認の象徴とも言えるのが同性同士の婚姻の法制化です。佐藤さんが、同性婚の法制化は「私が若いころに持っていた、自分自身に対する否定的な気持ちを、これからの世代の人たちが感じなくてもよい社会にする」ことにつながるとおっしゃっているのは、そのような趣旨であると考えます。

もちろん何らの法的効果もない結婚記念カードだけでは問題は解決しません。
現に、今回の佐藤さんの入院先で、よしさんが勇気を持ってパートナーであると告げたにもかかわらず、医師は「親族でなければダメだ」と目の前にいるよしさんへの病状の説明を拒否し、別室から佐藤さんの妹に電話をかけました。佐藤さんの入院先はHIV診療の拠点病院であり、多数のゲイ当事者を受けいれている病院です。その病院ですら、愛するパートナーの病状の説明を受けることもできない、こんな理不尽なことがくり返されているのです。もはや医師の善意に頼ることはできません。法制度が必要なのです。

敗戦後の現行民法の起草の議論において、同性パートナーの法的保護は議論の俎上にも登りませんでした。それは、異性愛を「自然」「正常」とし、同性愛を「不自然」「異常」とする異性愛規範が社会を支配しており、民法の起草者たちが同性愛について誤った認識を持っていたからです。
しかし、そもそも憲法13条は「すべて国民は個人として尊重される」と定めており、国家に対し、それぞれの個人のそれぞれのあり方や生き方をそれ自体価値のあるものとして尊重することを求めています。その中には、それぞれの個人の多様な性のあり方や、それに基づく生き方の尊重も含まれます。そして、それぞれの個人の性のあり方に基づく人生の重要な選択に、性愛に基づく人格的結合関係を形成し、婚姻するという選択があります。そうであるからこそ、異性間であれ同性間であれ、憲法24条1項はすべての個人に婚姻をする権利を保障しているのです。異性愛規範に囚われていた現行民法の起草者たちは、このことに気づくことはできませんでした。
今日においては、異性愛であれ、同性愛を含むそれ以外の性愛であれ、それぞれの個人に多様な性のあり方があるという認識が社会的に獲得され、異性愛規範はその正当性を失っています。このような社会的認識は、自然に獲得されたわけではありません。佐藤さんをはじめとする多くの無名の同性愛者たち、そして、この日本の社会に憲法の理念を実現しようとする心ある人たちの地道な取組によって獲得されたものです。

佐藤さんは、この裁判の審理において、法廷でこう述べられました。

「私はHIV以外にも病気を抱えており、寿命はあと10年あるかどうかだろうと覚悟しています。 死ぬまでの間に、パートナーと法律的にきちんと結婚し、本当の意味での夫夫(ふうふ)になれれば、これに過ぎる喜びはありません。天国に逝くのは私の方が先だろうと思っていますが、最期の時は、お互いに夫夫となったパートナーの手を握って、『ありがとう。幸せだった。』と感謝をして天国に向かいたいのです。」

残念ながら、佐藤さんのこの願いは叶いませんでした。愛する人と結婚したい、そんな当たり前の願いが、実現できなかったのです。憲法はそれを許すのでしょうか。佐藤さんはそう問うています。
私たちは、本件審理に関わるすべての関係者が、この佐藤さんの無念の思いと問いかけを一時も忘れることなく、個人の尊重を謳う憲法の理念に深く思いを致し、自らの良心に従って、本事件に向き合っていくことを切に願うものです。

わんこの学校。

先週末は伊東の先にある「しっぽの教室」に海を連れて行き、今日は三島にある「わんこの学校」に連れて行った。

海は4か月を過ぎて、そろそろしつけ教室に通った方が良いだらうと思ったのだ。

「わんこの学校」に予約をして行ってみると、清潔で良さそうな空間だった。

海の帰りを寂しそうに見るビーグル

先生と話そうと中に入ると沢山のお預かり犬たちが海に近づいて来たのだけど、海は楽しそうに遊ぼうとしていた。

先生「どんなことがお困りですか?」

僕「あ…あまり困っていることもなく。トイレはきちんと出来るし、人懐こいし、犬も大好きなんです…車に乗るのが嫌いなことと、留守番が寂しくていたずらするのと、人に会うと興奮してしまうので、そんなところを治して行けたら」

先生「海くんを見る限り、めちゃくちゃいい子ですよ。陽気で人懐こくて。なにも問題ないと思います。興奮するのも次第に治ると思いますよ」

僕は「え?必要ないんですか?」

先生「また何か問題があったら来てください」

僕は、思いがけず海が褒められたことに驚くばかりだったのだけど、聞くところによるとここに来るイヌの大半は、吠えぐせや噛み癖があったり問題行動がある犬ばかりなのだそうだ。

僕とKは完全に親バカになり、海を撫でながら学校を後にした。

伊豆グランパル公園

伊豆高原には、「伊豆グランパル公園」というところがあって、犬を連れて園内に入ることができる。

公園といっても様々な乗り物やレストランがある公園で、家族連れで賑わっていた。


こういう場所に犬を連れて来られることがありがたいのは、子どもをはじめ老若男女が自然と集まっているから。

そんな中に海を連れて行って、突然走り出す子どもや奇声をあげる子どもにも驚かないように慣れてもらおうという算段だ。

中にはドッグランもあって、犬連れのカップルなんかが楽しそうに来ていた。

レストランも外の席ならば犬同伴ではいれるのもありがたい。

思えば、東京で犬連れで入れるお店を探すことは難しかっただろうと思う。

その点、静岡県は至る所にドッグカフェやドッグランがあるのでありがたい。

すべてのバラを植える。

2月に入って体調が戻って来たこともあり、先日バラを植えたことはここに書いた。

そして今日、最後に残っていたバラを6本くらい庭の斜面に植えた。

ざっと数えると22種類。

一季咲きか、返り咲きか、繰り返し咲きかによって、植える場所を考えながら植えたのだけど、開花の時期を迎えてみないと、その場所がそれぞれのバラに適していたのかどうかはわからない。

肥料をあげ、水を切らさず育てながら、春を待つのみ。

お茶にお呼ばれ。

先日ここに書いた、熱海在住の上品なおばあさんから電話があり、東京に行く前に僕に会いたいとのこと。今日、Kと二人でお家にお邪魔した。

おばあさんはお茶の先生で、麻布十番に家を構える70代。ダックスフンドのクリちゃんと一緒に海の見える大きな家で暮らしている。

初めて会った別れ際におばあさんは僕に、「今度奥様と一緒にいらしてください」と言ったのだけど、僕はその場では「わかりました」と伝えて、後で電話をいただいた時にすぐに自分がゲイであることやパートナーのKと一緒に暮らしていることを話したのだ。

するとおばあさんは何にも驚く様子もなく、「私の周りには女性同士のカップルがいるの。はじめは私もそう言う人たちのことわからなかったんだけど、おつきあいするうちにとってもいい方たちだったのでなんとも思わなくなったわ」

おばあさんの家に行くと、りんごをシナモンで煮てあって、次々にお菓子が運ばれて来た。

僕の仕事の話や、おばあさんのご家族の話、亡くなった旦那さんの話、今の息子や娘さんの話、Kの仕事の話・・・色々と話が尽きることなく、楽しい時間を過ぎすことができた。

僕は若い頃は、年寄りは自分とは違った世代の退屈な人たちだと勝手に思っていたのだけど、今はもちろんそんな風には思っていない。

歳を重ねた人たちは、その人その人生きて来た経験の豊かな、自分にはわからない驚くような人生を歩んで来た人たちなのだとわかっている。

おばあさんは僕たちが帰った後の、大坂なおみ選手の決勝戦を心待ちにしていた。

広尾。

今日は広尾の編集室で仕事をしたのだけど、僕が高校へ行っていた頃、東京の中で最も高級で憧れていた場所は「広尾」だった。

美術学校の友人が、「もしも私が救急車で運ばれることがあったら、とっさに広尾病院まで!」と言うと言っていた。

自分が広尾の近くに住んでいると思われたかったのか、お見舞いに来てくれる人が、広尾病院ならば気持ちがいいと思ったのか、同時はそんな虚栄心を笑い物にしていた。

広尾に行くたびに、そんなことばかり話していた高校時代を思い出す。