スタッフィング。

僕の仕事は、プロジェクトごとに毎回スタッフィングをする。
少しでもいいものを作るために、どんなスタッフが最適なのか。毎回毎回頭を悩ませる。人間だから、人の”合う合わない”もあるし、人数が何人かに増えるとその中での微妙な化学反応が起きるからだ。
できれば優秀なスタッフをと思うのは、クリエーターとしては当たり前のこと。自分の作る物が評価され、ひいては次の仕事に繋がってゆくから。
今回、少し大きなプロジェクトがあって、僕はぎりぎりまでカメラマンを決めかねていた。入社以来何度もお世話になっていて手堅い仕事のKaさんにするか、業界の中で売れっ子の引く手数多の新人で、自分がまだ一緒に仕事をしたことのない人で挑むか、何日か迷い続けていた。
僕の仕事人生の中で制作をするのも実は限られて来ている。永遠に同じ仕事は続けられないからだ。残された時間の中で出来るだけいい仕事をしたいという思いを、どちらを選ぶことで実現出来るのだろうか?と。
さんざん迷ったあげく、結局僕は、昔から一緒に仕事をしてきたKaさんにお願いすることにした。決めた後に、すぐにKaさんに電話を入れた。「また、よろしくお願いします!」
僕にとって、その選択の迷いは、言うなれば、
『情に生きるか。利に生きるか。』
といった人生の中での選択だった。
僕は、今まで一緒にやってきたKaさんと、今回の新しいプロジェクトを進める決断をしたことを、それでよかったと思っている。
僕たちは、スペシャルなものはもしかしたら作り出すことはできないかもしれない。でも、またいつものみんなで、ワクワクするような時間を過ごすことが出来る。
スタッフは、僕の宝ものだ。

別れる時の愛。

『なぜ愛は、憎しみに変わるのだろう・・・』
先日観た、映画『トゥ・ザ・ワンダー』の中に出て来る、人類が何千年も問い続けて来たであろう台詞を聞きながら、さまざまなことを考えた。
友人たちの別れ話が続いている。
永遠に続くように思われた恋愛にも、つきあうことによって関係性が変わり、次のステップを乗り越えられずに別れを選択しなければならない時が来ることがある。
僕は昔、携帯のメール一本で、別れを告げられたことがある。
僕はその時にされた同じことを、どんな人に対しても、これから先、決してしないと心に誓った。
別れる時にも、愛は存在している。
昔、ふたりが一緒に分かち合った輝かしい瞬間は、遠く消え去ってしまったかのように思えても、ふたりで体験したいろいろな記憶は、そのままそっくり残っている。別れるからといって、ふたりで過ごしたすべての時間が無駄になり、消えて無くなってしまうわけではないのだ。
別れを切り出すにせよ、切り出されるにせよ、別れる時の愛を忘れないでいたい。
もう二度と、この人生で会うことなどないにせよ、別れる時にも、つきあい始めた頃の、全身全霊で相手を好きであった頃のことを、しっかりと憶えている人でありたい。

夜蝉。

東京では、夜でも蝉が鳴いているのをご存知だろうか?
僕の家の周りは、神宮外苑の森に囲まれ、夏の間、昼間は甲子園の応援と蝉の大合唱が聞こえる。
今まで、あえて気にすることは無かったのだけど、昨夜、寝ようとしたところ、蝉が鳴いているのに気づいた。
どうやら蝉が何匹か廊下に迷い込み、一匹が僕の寝室の窓枠に停まって大きな音で泣きはじめた。
その音は近くで鳴かれると、騒音以外の何物でもなく、3時まで続いた後、頭に来て外に出てスリッパで蝉を追い払った。
蝉たちに罪はなく、25度以上の暑さと、夜でも灯りがこうこうと照りつける都会の夜を、昼間だと勘違いしているらしい。
3年から17年もの間、幼虫として地中で暮らし、外に出て来て羽の生えた蝉になり、およそ数週間の生命。
蝉の人生は、昔からいく度となく人間の人生と比べられ、例えられて来た。
あれほどうるさく鳴き叫ぶのも、雌への求愛の音だという。力の限り求愛して、子づくりをして、死んでゆく。
『空蝉よ 樹にしがみつき 放すまい』
これは昨年、書家の友人に歌を詠んでくれと頼まれて、詠んだ歌。
今年は、また違った視点で、蝉を思いながら過ごしている。

今年いちばんの山。

今日は、2年がかりで進めて来た大きな仕事の撮影だった。
懸案事項が多く、その上、突発的なアクシデントも起こり、緊張のあまり、朝から何も喉を通らず、水分だけ飲んで本番を迎えた。
カメラマンは今日の撮影のために、日頃の金髪から、黒髪に染め直して臨んだ。スタッフみんなも、暑い中、シャツにジャケットやスーツを着て集まってくれた。
いざ、撮影が始まると、スムーズにことが運び、アッという間に撮影は終わった。
終わった途端、みんなの顔に笑顔が戻った。後輩のIも、嬉しさのあまり目を潤ませていた。僕も、極度の緊張から解放されて、お腹が急に空き、足がガクガクした。
外苑前まで戻り、久しぶりにマッサージをしてもらった。首も背中も腰も、どこもかしこも強張り、ガチガチになっていたようだ。
今年いちばんの山場を越えた夜、家でシェリー酒を飲みながら、自分のためにイタリアンを作り、ゆっくりと食事をした。
支えてくれた、沢山のスタッフに、感謝します。

ガンジーの言葉。

「すべてを運命のせいだと諦めてはいけない。これまでの努力を無駄にしないためにも」 マハトマ・ガンジー
クライアントからの帰り道、タクシーに乗ったら書いてあった言葉。
僕は内心、「もう、なるようになってくれ!」と思っていたのだけど、「ガンジーさんに言われては、諦めるわけにはいかないかな…」と思い、一緒にこの仕事をやっている、既に諦めかけている後輩Iにこの言葉をメールした。
Iからは、数時間後にメッセージが来た。
「ありがとうございます。心折れそうになっていたところ、Tさんからいただいたガンジーの言葉でもうひと頑張りしようという気になりました。少しでもいい結果になることを祈りましょう」
もうひと頑張り、もうひと頑張りと自分に言い聞かせて2年くらいやって来たけど、なかなか思うようにいい展開にならずにいる状況の中で、すべてを他者や運命のせいにすることは簡単なことだ。
僕は、基本的には、目の前の現実は自分が作り出していると考えている。目の前の現実に対して、どう向き合ってゆくかが、少し先の展開を生み出してゆくと。
ガンジーは許してはくれないかもしれないけど、諦めずに頑張ったところで、それでもうまく行かない時もある。でも、最後まで諦めずにやったということで、自分に対する肯定感を持つことができる。
周りを騙すことが出来たとしても、自分の心の奥深くは騙すことは出来ない。自分に対して肯定する気持ちを抱くことが出来れば、やがてまた立ち上がることも出来るだろう。

ライフライン。

スマホがいつのまにか、ライフラインになってしまったようだ。電気、水道、ガス、スマホ・・・それは、生きるためになくてはならないもの。
日曜日にKと一緒に車で、映画「風立ちぬ」を観に行って、一度帰ってからバスで晩ご飯を食べに出かけたのだけど、レストランでKが、「急がせるから、ケイタイを家に忘れたみたい」と言っていた。
家に帰って、ケイタイを置いていた所を見ても見当たらず、なくしてしまったことに気づいた。K曰く、「パンツのポケットが浅いから、どこかで落としてしまったんだと思う」。
家からレストランまでの道程を思い返してみても、道で落としたかバスで落としたか、レストランかになるのだけど、時間が遅いのでバス会社もやっていないし、レストランも閉まってしまった。確認しようにも、明日の朝からしか出来ない。おまけにKは、確認する電話をかけるにも、家の電話は持っていなかった。
ケイタイをなくしてしまったことが分かって、Kは急に元気をなくした。
僕は、「明日出て来るよ。大丈夫。万が一なくしたって、また、新しいの買えばいいじゃん。ケイタイなんて大したものじゃないよ。」と言ったのだけど、そこのところも、Kの考えとは違っていたみたい・・・。
僕も、落とし物や、なくしものはあまりしないと思うのだけど、本当にたまに、驚くような物をあっさりとなくしてしまうことがある。
家の鍵はしょっちゅうどこかに行ってしまうし、ニューヨークの空港でチェックインしようとしたら、パスポートがなかった(なぜか、トランクの中のPLAY BILLの中に挟まっていた)とか。ソウルの空港でチェックインしようとしたら、しばらくパスポートを見ていないことに気づいた(ホテルのセキュリティーボックスに置いたままだった)とか。ニューヨークのBroadway Baresという巨大なパーティーにいざ入ろうとしたら、プレミアムチケットを自分だけ持っていないとに気づいて、みんなと一緒に道に落としたのではないかと真っ暗な中探し回った(結局ポケットに入っていた)こととか・・・。あれ?あんまり、たまにではないみたい・・・笑
Kは、僕と違って、ほとんどなくしものなどしないのだろう。だから、いざ、なくしものをした時に、ほとんど硬直して機能しなくなってしまう。
その日は、もうしょうがないから寝て、月曜の早朝に、僕が自分のアドレスを書き残し、バス停まで送ってもらって別れたのだけど、会社で会議をしていたら、非通知でKから電話が入った。「Tさん!ケイタイがやっぱりバスの中にありました!仕事が終わったら、取りに行って来ます!」
夕方、家に帰ったKからメッセージが届いた。「せっかく楽しい週末だったのに、昨日はごめんなさい」。
遠く離れた僕たちを、スマホがつないでいる。

父に会いに。

今日は、父の誕生日であり、命日だったので、父の墓参りに行った。
父が亡くなってから5年経つのだけど、お盆と彼岸には墓参りに行かず、必ず命日に墓参りに行くようにしている。一年の内で、自分の親の命日くらい、親のことに思いを馳せ、受け止めて生きていけるように。
亡くなった時には、父に対して、赦せなかった思いが残っていたのだけど、5年も経つと、父に対する感情も変化を遂げて、また別のさまざまな思いが浮かんで来る。
先日、眠れない夜に、父に向けて手紙を書いてみた。
その手紙を墓前で、ゆっくりと読んだ。
父が聞いているのかは、わからないけど…
人は死んだら、目には見えなくなってしまう。
肌も、髪も、骨さえも、いつか小さな粒に還り、目には見えなくなってしまう。それはあたかも、水が形を変えて気体となって蒸発してしまうように。
そうやって、人は、この宇宙から消えてしまうのだろうか?
もし、水と同じだとしたら、姿かたちは変わっても、無くなることはないのではないだろうか…この宇宙から、消えて無くなるものなど何も無いように…
命日には、無くなった人が一日帰って来ると聞いたことがある。
父は、帰って来て、僕の家の様子を見ていただろうか?
夜は、バーで友人と楽しく話しているのを見ていただろうか?
自分に似て、お酒ばかり飲んでいる僕を心配していただろうか?
もう、二度と会うことのない父のことを思いながら過ごした一日だった。

MKタクシー。

京都の割烹料理屋で、帰りのタクシーを呼ぶと、MKタクシーにお世話になることが多い。
そのサービスを一言で言うことは難しいけど、今まで出会ったMKの運転手さんたちの態度は、総じて『謙虚』という一言が浮かぶ。
東京では、台数が少ないので、なかなか利用する機会もないのだけど、例えばこんな朝から雨が降っていて、荷物を持って東京駅まで行くような時に、他のタクシー会社ではなく、MKタクシーをお願いする。
バンコク行きの便が夕方なので、朝の8時に家まで来てもらった。東京駅に、一度荷物を預けて、会社に行き、その後、成田エクスプレスで成田まで行くために。
運転手さんは、僕が現れると、直ぐに出て来て荷物を持ってトランクに入れてくれる。後部座席のドアも、いつも必ず開けてくれる。
MKは、降りる時も、運転手さんは、素早く僕よりも先に降りて、後部座席のドアを外から開けてくれるのだけど、あまりにも素早く、一生懸命な姿に、こちらが恐縮してしまうこともある。
今日の運転手さんとも、天気の話から、景気の話、東京駅の改築工事の話などをしながら行ったのだけど、どんな話をしても、いつも控えめで、決めつけたり、自分の意見を押し通すようなところがない。
どの運転手さんも、これほど謙虚にお客さんに接するようなサービスが出来るなんて、他のタクシー会社では、ちょっと考えられないと思うくらい。
きっと、研修がしっかりしているのだろうなあ…などと思い、
「ありがとうございました。今日は、本当に助かりました」と言って下りたら、「ありがとうございました」と、うれしそうに何度も笑って頭を下げられた。
お陰で、雨の朝でも、清々しい一日の始まりを迎えることができた。
ありがとうございました。

ともに仕事をする人たち。

20年くらい前から、一緒に仕事をしているカメラマンKさんや、撮影の時に様々な手配をしてくれるMさんと、久しぶりに撮影をした。
シズル師(ビールの泡や水滴などを、美味しそうに作る人)として有名なMさんも、今は57歳。先日、白内障の手術をしたばかりで、まだ、完全に仕事に復帰している感じではないせいか、ずいぶん年をとったと感じた。病気のせいかちょっとやつれて、小さくなっていた。
若い時は、わからなかったけど、今感じることは、
『ともに仕事をする人と過ごす時間は、決していつまでも続くことはないということ。
その時間を、一緒に分かち合って生きているようなものなのだということ』
二人とは、色々な所にロケに行った。飛騨高山、屋久島、金沢、京都、名古屋、金山、静岡…
昔、静岡の温泉地に行った時に、温泉芸者がいたことがあったとか、風呂の中に砂が入っていたとか、屋久島で、亀の爪のような食べ物を食べたとか、子どもの撮影に、僕は自分の甥っ子を呼び寄せ、Mさんは自分の子どもを忍び込ませたとか…
一緒にいるだけで、自然と気持ちはほぐれ、ともに過ごした時間を懐かしく思い出して笑いあった。
これからもMさんと、まだまだたくさん一緒に仕事をしたいけど、それも永遠ではないことはわかっている。一つ一つの仕事で喜びや笑いを、ともに分かち合っていこうと思った。

イメージ。

先日、ふと気づいたことがある。
昔、映画『シングルマン』を観た後のこと。映画の中で、コリン・ファースと若い恋人が、長いソファで向かい合って座っていて、お互いに別々の本(うる覚えだけどコリン・ファースは、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』のような硬めの本、若い恋人は、柔らかめのカポーティの『ティファニーで朝食を』)を読んでいる。
コリン・ファースは、若い恋人の読んでいる本を、ちょっと小馬鹿にしている感じだけど、そんな何気ない日常の一場面が、二人にとってかけがえのない幸福な時間だったということを感じさせてくれる名シーンだ。
このシーンを観て、当時独りだった僕は、『ああ、あんな、なにげない日常が、ほんとうの幸福なんだよなぁ』としみじみと思った。
そしてなぜか、次の恋愛は、自分がソファに足を投げて二人で向かい合って座っていて、お互いに好きなことをやっている。若い恋人は、こんな感じで(これはかなりリアルに)と何となく思い描いていた。
前に、Kが東京に来た時に、自分がシングルマンの映画と同じことをしていることに気づいた。ソファにKと二人で向かい合って座っていて、僕は海外の小説を読んでいて、Kは・・・・・・『未来少年コナン』を読んでいた(笑)
自分の頭が真っ白な状態の時に、思い描く確かなイメージ(意識)は、少し時間をおいて実現されるということが、いくつかの本で描かれている。
それが、本当かどうかは分からないけど、人間は、早く移動することを思い描いて、自動車を発明したし、空を飛ぶことを思い描いて飛行機も生まれた。そんなことを思うと、人間の意識というのは、現実の世界を少なからず作り出していると言ってもいいかもしれない。
僕とKのことなんて、「そんなの映画の観過ぎだよ」と思うこともできる。でも、もし、人間の思い描くイメージ(意識)が、ちょっと時間をおいて現実化してゆくのなら、こんなに面白いことはないと思う。