自転車。

ベランダのジューンベリーの実が色づきはじめた。
買ってから15年くらい経つプジョーの自転車が、
ここ何年か、駐輪場に置きっぱなしになっていた。
修理をお願いしたところ、
両輪を付け替えるので1万5千円と言われた。
何年も乗っていなかったため、錆びてしまい、
今は哀れな姿になってしまっている。
洋服でも、鞄でも、靴でも、食器でも、洗濯機でも、家でも、
物は、人間や、動物や、植物と同じように、
注目されなければ、離れていってしまうと感じる。
適度な関心と愛情を持って接している物と、
まったく無関心になってしまった物とは、
その物との精神的な距離感が全然違ってくるから不思議だ。
そして、遠く離れてしまった物とは、
その距離を縮めるのはなかなか難しい。
かわいそうだけど、粗大ゴミに持って行ってもらう手続きをしたら、
なんだか急に、昔、自転車ばかり乗っていた生活を思い出し、
新しい自転車を買おうかとあれこれホームページを見てみる。
今の所、迷っているものは、イタリアのABICIhttp://www.abici.jp/
というブランドの町乗りのもの。
よくよく考えてみたら、世の中の流行とは逆行して、
自分があまり早く走ることに興味がないということが分かった。
身体は、あまり前傾にならずに、タイヤは細すぎず、
雨の日でも乗れて、鼻歌でも唄いながら走れる自転車が理想だ。
みんなは嫌がるけど、籐の籠がついていてもいいかもしれない。
どうせ、ネギや大根やセロリを入れて走るのだから・・・笑。
自転車を捨てることを、Kに告げると、Kからメッセージが届いた。
「ちょうど、自転車が欲しいと思っていたんです。
今度、宮崎で会う時に、乗ってきてください」

母をたずねて。

久しぶりに、母の家に行った。
僕が今のマンションに引っ越す時に、植物が置けないので、沢山の植物を、母の家に無理やり運んだこともあり、色々な花が咲くたびに、見に来いという電話はあったのだけど、なかなか予定を合わせられずにいた。
僕が小さな頃の写真を、何枚か揃えて僕に渡すように用意してあり、今は空き家になっている一軒の家も、売りに出すことを考えていると言う。
母は、71歳だけど、この頃少しずつ、自分の身辺整理を始めているような気がする。
僕の好きな唐揚げや、天ぷらや、大根の葉の煮浸しや、サラダをたっぷり用意して、帰りにも、畑で採れた沢山の野菜を僕に持たせてくれた。
梅雨に入る前のこの季節、世界は美しさに満ちている。
バラは咲き乱れ、樹々は新緑で萌え、遠くから、小学校の運動会の音が聞こえて来た。ジョギングする人も、心地よさそうで、自転車に乗る親子も、楽しそうに横を通り過ぎてゆく。
今日のような日は、そんな日常の何気ない光景が、まるでスローモーションのように感じられるから不思議だ。
遠く、僕の姿が見えなくなるまで手を降り続ける小さな母を見ながら、何度も思った。
あぁ、世界は、なんて美しいのかと。

宝もの。

会社で、すれ違いざまに、
入社2年目の女の子Aに呼び止められ話しかけられた。
「今週、朝からTさんが居なくて、すごく寂しかったです。
会社ががらんとしていました」
僕は、今週は撮影やクライアントへの立寄が続いて、
前半はあまり席にいなかったのだ。
いつもだと、だいたい8時半から9時には席にいるので、
うちの会社の始業時刻は9時半なので僕が周りでは一番乗り。
その後に新入社員が来る感じなのだ。
自然と、彼らと挨拶をするし、ランチに一緒に行ったり、
ネットやパソコンで分からないことを聞いたり、
最近の若者のことを聞いたり、コミュニケーションは沢山とれる。
中でも、2年目になったAは、子犬にように僕につきまとい、
映画を薦めると、すぐに迷わず観に行くし、
その感想もうれしそうに伝えてくれる。
朝、挨拶をするときも、何か話しかけても、
心から喜んでいるように、顔がきらきらと輝く。
それは、恋愛感情ではなくて、
一緒に仕事をしたり、たわいもない話をしたり、ランチに行ったり、
同じ時間を過ごすうちに、芽生えた家族的な絆のようなものだ。
僕が入社した時に、上司に言われた言葉がある。
「君は、僕たちの宝ものだから」
昔は、その言葉の意味が分からなかったけど、
会社で何年も生きているうちに、
そんな言葉をわざわざ言ってくれた上司のことを思い、
その有り難みをしみじみと感じるようになった。
忙しかったり、自分に余裕のない日でも、
彼女のまっすぐな微笑みを見ると、勇気がもらえる。
今度、一緒に飲んだ時に言ってみよう。
「Aは、僕の宝ものだよ」と。

『意識』その1。

今日は、本を読んでいて、ぐるぐる考えていることを書きます。
はじめは、目に見えないほどの精子と卵子なのに、その小さな粒が、今の僕の顔や身体になってゆく。その小さな粒には、僕のような身体や顔や気性になってゆくイメージを持っていたのだろう。
僕たちの身体(髪や皮膚や爪や血液や筋肉や臓器などの細胞)は、ある一定の時間を経て完全にすべて新しく生まれ変わる。およそ1年くらいで、身体のすべての細胞が生まれ変わるという。
それなのに、僕たちの『意識』は、いったいなぜそのままあるのだろうか?子どもの時からの記憶をはじめ、一年前のことも、そっくりそのまま覚えているのはどうしてだろうか?
『意識』というものが、脳の中に存在しているのならば、脳細胞が生まれ変わる時に、また新しくなってもよさそうだと思う。
たとえ、手がなくなっても、足がなくなっても、『意識』があれば、自分はまだ、存在していると感じることが出来る。それはすなわち、僕たちは、『身体』なのではなくて、『意識』なのだ。『身体』は、まるでクルマのようなものなのだろう。

母とランチ。

正月、母の日近辺、9月の母の誕生日、それと、もう1回くらい、年に4回くらい、母には会うようにしている。
今日は、久しぶりに母とお義父さん(母は、僕が働き出してから再婚をしている。僕の実の父親は、亡くなっている)と食事をした。いつもは、伊勢丹の分けとく山なのだけど、今日は11:30なのにものすごい行列だったので、銀座アスターに。
母は、僕の顔を見るなり、
「眠れなかったんでしょ?ニンニク食べたんじゃない?」と聞いて来た。
僕は驚いて、「あ、昨日は、ハンバーグとサラダと、ペペロンチーノだった…」
母は、「あなたも、ニンニクを食べると眠れないわよ。私と同じなんだから…」と自信たっぷり。ニンニクが眠れなくなるなんて分からないけど、昨夜は久しぶりに眠れずに困った。
母とお義父さんは、家のそばに畑を持っていて、菜園をしている。そこで採れたキャベツと、ニラと、蕗を茹でたものと、三つ葉と、イタリアンパセリと、鶏の唐揚げを作って持って来てくれた。
仕事のこと、健康のこと、母の質問に答えながら、話していると、お義父さんが急に、「ただしくんに言わなかったけど、こないだ骨折したんだよ。時々目も赤くなるし、耳もおかしいと言い出して医者にかかったこともあったんだから…」
いつものことだけど、母は、僕に心配をかけないように、自分の身体の不調は、僕には黙っていたようだ。
離れて暮らしていると、時々電話で話すくらいでは、どんなに母をたいせつに思っていたとしても、日々の暮らしの中で起こる身体の不調には、なかなか気づいてあげられない。
今日は、母に言おうと決めていたことがあった。もし、お義父さんが先に亡くなってしまったら、一人で暮らしたくなくなったら、僕と一緒に住もうということ。微妙な話なので、お義父さんの前では、今日は話すことは出来なかった。
僕も年をとり、様々な選択に迫られ、今、考えていることなのだけど、今まで僕は、世界一の親不孝者であったと思う。年老いてゆく母に、今さらカミングアウトをすることも出来ないだろう。でも、元気で一人で暮らしたいという間はともかく、年老いた母を、一人で暮らさせることは、僕には出来そうにない気がする。その時が来たら、僕が一人でいるのか、Kと一緒にいるのか分からないけど、母と一緒に暮らそうと今の僕は思っている。
「どんな花が咲いてるかしらね…」と言いながら、新宿御苑に颯爽と消えて行った母を見送りながら、そう思った。

あるもの。ないもの。

生きていると、色々なことがある。
多くのものを得たことは確かだけど、
多くのものを失ったことも確かだろう。
時には、失ったものや、ないものに思いを馳せるのも、
人間らしくていいと思う。
でも、それに焦点を当てすぎると、人生が息苦しく、
暗澹たるものに思えるから不思議だ。
出来ればどんな時でも、
今、自分の周りにあるものや、自分が得たものに、
感謝出来るような心でありたい。
それが、時にはとても難しいことなのだけれども。

身近な人が、親を亡くした時に。

親を亡くすということは、本人でなければ分からないけど、とても大きな喪失感を味わうものだと思う。
周囲の人はほとんど、踏み込まないようにと気を遣い、お決まりの挨拶を述べて、その後は腫れ物に触れるように、少し距離をおくようにする。
僕の父は、五年前に亡くなったのだけど、僕はその告別式の日に、10年間つきあっていたパートナーとも別れた。
忌引を終えて、会社に行くと、会社の上司Oから、手書きの手紙がポツンと机の上に置いてあった。その手紙が、温かく、僕にはとても励ましになった。
僕も、この上司Oのように、親しい人の辛い時に、できればその人に寄り添うことの出来る人間でありたいと思った。
先日、僕の長い間そばにいた別の上司で、僕にとっては兄のような存在Fのお父様がお亡くなりになった。葬儀もすべて終わらせてからの発表で、お金もお花も受けつけないという文面だったのだけど、サダハルアオキのフルーツケーキと、手紙を添えて、今朝、一番で席に行き、お渡しすることが出来た。
Fは、はじめ、久しぶりに会う僕に少し驚いていたけれども、すぐにうれしい返信が帰ってきた。
上司Oからいただいた手紙は、ここでは控えるけれども、自分の書いた手紙をここに。
会社の上司に、こんな文章なんて‼と驚かれるかもしれないけど、僕は、どんな場合であれ、文章は、難しい漢字や言葉で書くよりも、平易な言葉を心がけている。
Fさんへ
お父様が他界されたことを知りました。ご病気だったのか、急なことかわかりませんが、たいへんでしたね。
親を喪うということは、たとえいくつになっても、大きな喪失感だと思います。
僕が父を亡くした時に、同時に長くつきあっていたパートナーも失って、僕にとってはとても苦しい時に、Fさんにいつも見守っていただいていたことを覚えています。
あの頃は、自分の影を失ったようで、毎日が重力を感じないような不思議な気分でした。
Fさんのことだから、きっとお父様との絆も深かったでしょうし、お父様もきっと、やさしい方だったと想像出来ます。
そして、Fさんのことだから、周りには心配をかけないように、今日も平然と仕事をこなしているのだろうと思います。
どうか、時間をかけて、ゆっくりと、やさしいFさんに戻って来てください。
KIのお母様が亡くなった時に、Fさんが、「親を亡くしてからでも、親孝行は出来るから」とおっしゃったと、KIから聞きました。とても、深い言葉だと思いました。
僕は、未だに親不孝者ですが、いつか、なんとか、親孝行が出来れば…と思っています。
Fさんにとっても、僕はいつも不肖者でしたが、いい仕事をすることが、僕に出来るFさんへの唯一の恩返しだと信じて、これからも頑張ります。
T

大きくなってわかること。

毎朝会社に向かう駅までの道は、自分の母校の前を通っている。僕は実は、自分が卒業した高校のそばに住んでいる。
東京で一番好きな町である外苑前は、僕の人生でも一番波乱に満ち、楽しかった時代を過ごした町でもある。
学校の前を通ると、27年前と同じように、あの頃いた先生が立っていたりする。
彼ら自身のありようは、びっくりするほど昔と変わっていないので僕には分かる。僕はゲイであることも自覚していて二丁目で遊んでいたし、停学にもなった有名生徒だったのだけど、月日が経っているので彼らは決して僕に気づくことはない。そんな時、ちょっと映画の中に入ってしまったような不思議な気持ちになる。
今思うと、先生たちを勝手に大人の代表と見たてて、大人のズルさを見つけて逆らっていたのだけど、その頃の先生たちだってきっと、20代終わりか30代だっただろう。先生たちもきっと、毎日生きてゆくことで精一杯だったに違いない。世間知らずの中途半端な年頃の子どもたちに逆らわれて、さぞ鬱陶しかったに違いない。
時々、自分の担任だった先生が遠くに見えることがある。その時は急に、声をかけたい衝動に駆られる。
あの頃、沢山心配してくれたお礼と、なんとか身体だけは大きくなったけど、いつまで経っても大人になりきれないということを、正直に話したいと思う。
そんな時が、いつか来たらいいな。

人のためになる仕事。

「人のためになる仕事をする」ということを、
35歳を過ぎた時に自分で誓ったのだけど、
毎年そう思っていても、
なかなか目の前の仕事で手一杯で、
あまり出来ていなかったというのが現実の話。
それでも、40歳を越える辺りから、
不思議とそういう可能性のある仕事が入るようになり、
先日、身体障害者や知的障害者を雇用する会社の、
ロゴデザインからシンボル、ユニフォームまでの
トータルなデザインを頼まれた。
新しい会社のCIは、
今までいくつかデザインしてきたけれど、
今回も、いったい何がデザインでできるのか、
日々、考えてアイデアをぐるぐると思い巡らせている。
日々の営みは、どんな仕事であれ、社会と繋がっている。
何か人のためになる仕事が出来るようにと意識をしていたら、
それが少し時間が経った後に現実化して来ることが分かる。
人間の「思い」や、「イマジネーション」は、
僕たちの日常をつくっているのかもしれない。

怒ること。

怒ることは、とても難しい。人に対して感情を出すことだから。
怒らないで過ごす方が、どんなに楽だろうかと思う。
愛情があったとしても、怒ると、怒った人に嫌われるかもしれないし、何よりも、怒った方が、エネルギーをつかうことになるから。
仕事で、今日は怒らなければならなかった。
自分の過ちを認めて、謝るということは、実は難しいことだから、人によっては、言い訳をすることがある。
でも、言い訳をしていたり、問題の本質を隠していると、問題がよくわからずに時間が過ぎてしまい、問題は更に大きくなったりすることがある。
自分の非を認めるのは、勇気がいることだけれども、次のステップに行くためには、とてもたいせつなことなのだ。
怒った後に、自分でも自省した。会社を出て、いつまでも考えた。
あの怒り方でよかっただろうか?適切な言い回しだっただろうか?感情的ではなかっただろうか・・・?
問題は、彼の明日からの対応にもかかってくる。
問題が大きくなっても頑なに過ちを認めずにいる人よりも、正直に謝る人間に、人は協力的になるからだ。