家族のような人。

朝、9時に会社の前に歩いて着く頃、別の方向から元上司のFさんが急ぎ足で現れて少し前を歩いて行った。
Fさんは僕が入社した時に、偶然隣の席にいた人で、その後僕の上司になり18年間ずっとそばにいた人。昨年の編成替えで今は離れてしまったけど、長い間Fさんには実の兄や父親のようにやさしくしてもらった。
1年目の時に、上の先輩があまりにも優秀すぎて、彼のやり方に着いて行けなくて、少しやる気を無くしていた時に、Fさんはそっと午前中に僕を連れ出した。ふたりで浅草橋に行き、色々な小さな雑貨や民芸品、下町ならではの商店街を夕方まで散歩した。その時Fさんは、僕になんにも言わなくて、ただ、会社をさぼって一緒に歩いてくれただけだった。
その後、様々な会社の人事の移動などからも、影で僕を守り続けてくれたようだ。
アイデアが出なくて困っている時も、チームで競合に臨む時も、いつも困難をともにくぐり抜けて来た。
5年半前に僕の父が亡くなった時に、会社で一番僕のことを心配してくれたのはFさんだった。父の葬儀は家族だけで執り行うと会社では告知したのだけど、Fさんは当然のように会場を突きとめてやって来た。「俺はお前の家族の葬式にはどんなことをしてでも行くから」と。
父が亡くなったことと、10年間つきあってきた相手と別れたことを知って、Fさんはとても僕を心配してくれた。
年末の雨の日に、忘年会を小さなチームでやった時も、僕は未だ元気がなく少し自暴自棄になっていた。店を出てみんなを帰した後に、土砂降りの雨の傘の中でFさんは、「今は時間が必要な時だと思うけど、また、もう一度以前のような周りを温かく照らすようなTに戻ってくれ・・・」と潤んだ瞳で僕に言った。
人生には時々、Fさんのような、温かな愛情と感謝の気持ちを感じる人との出会いがある。離れてしまった今でも、いつまでもその人とは肉親のような思いで通じ合っていると感じることが出来る。
少し先を歩く後ろ姿を見ながら、温かい気持ちになった朝だった。

小春日和。

晩秋の、ぽかぽかとした春のような陽気の日を『小春日和』と言う。なんて美しい日本語だろうか。今日はもしかしたら暖かすぎるくらいの天気で、六本木から赤坂まで普段ならタクシーに乗る距離を散歩がてら歩きながら行った。
途中、大阪にお母さんに会うために帰省している友人のMのことを思い出し、ラインでメッセージを送ると、お母さんが公園でひなたぼっこしている写真が送られて来た。お母さんは車椅子に座り、それでも気持ち良さそうに笑っていた。
Mのお母さんは88歳。ついこないだまでとても元気で、年に数回は東京に遊びに来ていた。その時にはいつも一緒に食事をして、お酒も飲んで、楽しい時間を笑いながら過ごしたものだった。お母さんにとってみたら僕は、息子の友達というよりも、東京の友達のような感覚だったのかもしれない。
お母さんは80歳を過ぎてから、家のそばで転倒して背中や腕を骨折して、少しずつ身体が弱り始め、なかなか外出も簡単に出来なくなってしまい、その後、東京に来ることはめっきりなくなってしまった。
食べることや、お酒を飲みながら色々な話をすること、そして、旅行が大好きなお母さんと、今年の春、台湾に一緒に旅行に行こうと計画を進めていたのだけど、それは叶わず、今回の台湾旅行の際に、再びその計画が持ち上がったのだけど、足腰の衰えと下の世話もあり、外出の許可は得られず旅行は結局実現出来なかった。
Mは東京でお店をやっているため、なかなか大阪にお母さんに会いに行くことは出来ないのだけど、今回、大阪に会いに行くことが出来て本当によかったと思う。
親が老いてゆく姿を見るのは、きっといろいろなことを考えさせられるし、人によって様々な試練になるに違いない。Mの前にある問題は、やがてくる僕の母親の問題でもあり、ゆくゆくはM自身や僕自身の老後の問題でもあるのだ。
老後と言われる年になった時に、子どものいない僕たちは、いったいどんな風に老いを受け入れ、毎日を生きてゆくのだろうか。
その時そばに、愛し合う人がいてくれるのだろうか?
自分を支えてくれる人は、いてくれるのだろうか?
そんなことをいろいろと考えながらも、今はこの、美しい小春日和を存分に味わいたいと思った。
どこか旅行に連れて行くことが叶わなかったにせよ、今、Mが、お母さんと一緒に公園で過ごしていることを考えて、胸の中まで温かく感じられた。

Nにメールを。

後輩のNは、コピーライター。海外に留学していたので英語は話せるし、大学院まで行ったせいか、物腰も落ち着いている。離島で育ったせいか、どこか純朴で、一緒にいるとホッとするような人だ。
東日本大震災の後、東京で小さな子どもたちのいる家族と暮らす事に疑問を感じ、家族を自分の生まれ故郷である長崎の五島列島に移住させた。
その後、2年間くらい、自分は東京に独り残り、時々五島列島に飛行機で家族に会いに飛ぶような生活をしていたのだけど、昨年の秋に、会社の九州支社に募集枠が出たため、期限付きで福岡に自ら転勤して行った。福岡からならば、いざという時でも五島列島はすぐ近くにあると思えるに違いない。
その時に送別を兼ねて忘年会をしたのだけど、ふいに1年経って、「そういえば、Nは元気にしているかな?」と思い、様子をうかがいがてら、忘年会に来ないかというメールを書いた。すると、Nからは、うれしい返信が来た。
>Tさん、Kさん、Sさんとの忘年会ならば、出張関係なく行きます。
マイルがたまっているので気にせず行けます。みなさんの予定に合わせて、行きますので。
今はメールのやりとりで、なんだか全てが事足りてしまうような毎日を過ごしているけど、実際に人に会って顔を見ながら、ひとときをともに過ごすことは、なんと豊かな時間の過ごし方だろう。
Nとのやりとりのおかげで、メールに出て来たKさんは、間もなく役職定年を迎えることを知った。日頃、忙しい忙しいと自分のことばかりで、SNSなどで様子をわかっているつもりで連絡を取る事をおろそかにしていたけど、本当の意味で、人にきちんと向かい合っていなかったなあと改めて思い至った。
人は、iPhoneやPCの中にはいない。そう思った一日だった。

さようならという言葉。

前菜の盛り合わせ

甘鯛のスパゲティ

ボッリート・ミスト

7年間くらい一緒に仕事をしてくれたプロダクションのデザイナーの女の子が退職した。結婚ゆえの退職ではなく、違った仕事に転職したいためだと言う。新しい旅立ちを祝い、仕事場近くのイタリアンで一緒に食事をした。
人との出会いは不思議なもので、この世界で出会ったどんな人とでも、必ず別れる時が来るものだ。
7年間という永い期間、よく僕の、時間的にも拘束の多い仕事を支えてくれたなあという感謝の気持ちと、身近な人が、もう別の所へ行ってしまうというせつない気持ちが入り交じり、なんとも複雑な気持ちだった。
英語の『GOOD BYE』とは違って、日本語の『さようなら』には、様々な説があり、単に『左様ならば』の『ば』が省略された言葉だとする説と、『“さようなら”、と この国の人々が別れに際して口にのぼせる言葉は、もともと『そうならねばならぬのなら』という意味だとそのとき私は教えられた。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)』それは、ある種の諦めを含んだ言い回しとする説もある。いずれにしても他の国に類を見ない、極めて日本的な表現であり、その響きとともに美しくもせつない言葉だと思う。
別れ際に彼女に、「どんな道に進もうと、幸せになってくださいね。」と言って別れたのだけど、言葉の後に、「そうならねばならぬのなら」という気持ちが残ったままだった。
★Giglio http://giglio.jp/

温かい人。

後輩のコピーライターと打ち合わせをしていたら、「私、最近、子どもに勉強を教えてるんです」と言う。
よくよく話を聞いてみると、蒲田の銭湯でよく会うおばさんがいて、何度か会って挨拶をするうちに、急に「Yちゃん、頭いい?」と聞かれ、「勉強ならできました」と答えると、「それならお願いがあるのだけど・・・」と。
おばさんは八百屋さんをやっていて、自分の息子の同級生に、お金がなくて塾に通えないような子どもがいるので、そんな子どもたちに、どうか勉強を教えてくれないだろうか?というお願いだったということ。
「それで、どんな感じなの?」と聞く僕に、Yは、「7人いて、おばさんの子どもの同級生なんだけど、母子家庭だったり、6人兄弟だったりで、それぞれに大変な家庭なんです。」
「猫もいるし、家の中はしっちゃかめっちゃかなんですけど、テストの前なんかは集中して勉強を教えに行ってるんです。みんないい子たちで、おばさん、その子たちと自分の3人の子どもと家族の分も含めて食事を作って、その食事が毎回本当に美味しいんです。アップルパイなんかも手作りしちゃうんです。」
けらけら笑って、子どもたちに勉強を教えているYもなかなかだと思うけど、世の中には、こんな八百屋のおばさんみたいな人がいるんですね。
そんな話を聞きながら、いつの間にか僕の胸の中まで、じんわりと温かくなりました。

富士山。

晴れてよし 
曇りてもよし 
富士の山
もとの姿は
変わらざりけり
山岡鉄舟
山岡鉄舟が悟りを開いた時に詠んだと言われる歌。
なんて強く、美しい歌だろうか。

母の誕生日。

鯛の昆布締めとチーズの酒盗。

天ぷらと胡麻和え。

定番、鮑の磯焼き。

9月21日は母の誕生日だった。
旅行好きな母は、長野に旅行に行っていたので、今日、一緒に、いつもの伊勢丹の『分けとく山』でランチをした。
72歳になる母は、相変わらず元気だけど、一年に数回しか会わないと少しずつ年をとっているのがわかる。
長野を旅行して買って来たぶどうと日本酒を持って現れた母は、味噌も梅干しも自分で漬けるし、今は、『酵素』作りにはまっているようだ。
毎日欠かさず新聞を読み、朝ごはんは5時。ウオーキングをして、畑仕事をして、昼は11時。絵画教室や鎌倉彫の教室に通い、夜は4時に食べて、7時ごろには眠るらしい。7時ですよ!!!
母は、蕎麦懐石のグループに参加していて、日本中の蕎麦を食べ歩いたり、一年中各地を旅行している。
今の母を見ていると、こうして好き勝手に旅行して色々なものを食べ歩いている今は、本当に幸福そうに見える。
いつか、年をとり、動けなくなる日が必ず来ることを思うと、「美味しい」と言った時の無邪気な笑顔さえ、僕にとってはかけがえのないもののように思える。
手を振りながら別れる時に、何度も振り返る小さな姿を見ながら、こんな日々が、いつまでも続いてくれますようにと願った。
★分けとく山http://s.tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13004310/

出来事は、自分の心の捉え方が決める。

ランチを食べようと店に入ったら、4人がけの席に座らされ、「もうひと方と相席になるけどいいですか?」と聞かれ、「いいですよ」と答えた。すぐに男性が入って来て、僕とは違う注文をした。
間も無く店員さんが、僕の所に、頼んでいないサラダを持って来て、「お待たせしましたセットのサラダです」と言うので、「僕のではないですよ」と答えた。驚くことに相席の人のでもなかった。
暫くしたら、今度はまた頼んでいない食事を持って僕の前で、「お待たせしました。Bセットです」と言われ、「僕のではないと思います」と答え、結局その品物は相席の人のものでもなく、店員さんは謝りもせずそそくさと奥に引っ込んでいった。
僕も、毎回間違ったものを持って来て、いちいち聞かれることにイライラして、帰りにレジで事の次第を注意しようかとふと考えたら、やがて頼んでいたものが来てくれた。
でも、「僕も疲れていて余裕がなかったんだろうな…」と思い直してみた。
そして。いつも通りに「ごちそうさまでした」と言って店を出た。
店を後にする時に気づいたことだけど、自分の気持ちが不思議なくらいスッキリとしていた。
もしもあの時、店員さんに注意をしていたらどうだっただろうか?
お店は今後、同じようなことが起こらないように努力はするかもしれない。でも、肝心の僕の心の中は、モヤモヤした言いようのない気持ちが残っていただろう…
人の行いを目の前にした時に、良い悪いと裁こうとしたり、怒りや憎しみ、嫉みなどを感じるのは、人間だからしょうがないことだろう。
でも、そんな時に難しいことかもしれないけど、自分の心の状態をじっくり観察してみる余裕が持てたらいいのかもしれない。
大抵、自分の心に余裕がなかったり、疲弊している場合が多いのではないだろうか?
目の前の出来事は、きっと、自分の心がそれをどう捉えるかによって、変わってくるのだろう。
もしも今度、同じようなことがあったら、「次はどんな違うメニューが来るかな!」と言って、笑えたらいいなぁ。(でも、もうその店に行かないというのが賢明かもしれないけど…笑)

台風の一日。

日曜日は『元永』の後、台湾映画祭に行き、一本『台湾人生』という映画を鑑賞、その夜に、本州へ向かう台風のどさくさに紛れて帰って来た。
福岡空港は、何便か遅延および欠航が続き、熊本からの東京便が欠航して、その分の乗客が福岡空港に押し寄せたり到着便が遅れて、いったい帰れるのかどうかと思ったが1時間遅れで酷い揺れの後、夜中に羽田空港に到着した。
僕が小さな頃は、東京にも台風がよく上陸したと思うのだけど、最近では久しぶり、しかも超大型。京都の川が氾濫したり様々な映像を見ていると、自然の力の凄まじさを改めて思い知る。
一日中家にいて、家にあるだけの食材で色々工夫して料理をするのは、僕にとってはとても楽しみなことだ。しばらく家を空けていたので、葉ものの野菜はないものの、根菜はあるし、冷凍庫に肉類はあるし、乾物はいつもこんな非常事態の味方だ。
ゴルゴンゾーラのピカンテが買ったままあったので、久しぶりにゴルゴンゾーラのソースでフジッリを食べてみた。昔、ゴルゴンゾーラを初めて口にした時に、『世の中に、こんなに美味しいものがあったのか?』と思った食材だ。ジェノベーゼを初めて口にした時も、同じように思ったのを憶えている。
料理を作りながらワインを飲んだり、本を読みながら好きな音楽をかけて家でのんびり過ごす時間は、究極に贅沢な時間だと思える。外は台風なのだ。こんな日に、あえて外に出かけてゆく必要などなにもない。
日頃は自然のことなんてすっかり忘れて毎日を過ごしているけれど、じっくりと自然の驚異を感じながら、家の中で過ごす休日もなかなかいいものだと思う。
願わくば、家に暖炉があって、大型犬がいて、ロッキングチェアがあって、隣に恋人がいて欲しいところ。

結婚したいと思える人。

後輩のWは、理系で、東京大学の大学院を出て、僕の会社のクリエーティブに配属された。長野県出身、まっすぐで嘘をつかず、天パーで、外見はとても地味だ。
Wと打ち合わせをしているとほっとするし、長く一緒にいても心地よくいられる。
Wは、入社以来彼女が出来ず、彼女が出来てもあまりにも酷いふられ方をするので、酒の席では、いつもWのふられ話でみんなで盛り上がったりしていた。
そんなWのことを周りは心配して、一緒に洋服を買いに行ったり、僕もカバンや洋服をあげたことがある(東大の男は、かなりの確率で服も髪もダサい)。
ところがそんなWに、ここ最近かわいい彼女が出来たようだ。そのWの彼女は、Facebookで1000人以上と繋がっているらしい。
Wは人気者の彼女に、手玉に取られているのではないかと周りは心配している。
Wは僕のことを、お兄さんのように慕ってくれているので、僕と一緒に行ったレストランに連れて行ったり、外苑前界隈をデートで訪れたりしているという。(そのうち、ピンポンと家のブザーが鳴るのではないかと心配している)
打ち合わせのたびに、彼女と今度行く旅行の話などをしてくれるWを見ていると、本当によかったなあと思うし、そんなWを見ていると、「こいつと結婚する人は、幸せな人だなあ」と思える。
一生を添い遂げようとする人を選ぶ時に、何で決めるのかと考えた時に、やはり、その人の『心』なのではないかと僕は思う。
Wは、全く自分のタイプではないけど、ノンケとかゲイとか置いておいて、Wと結婚出来るか?と問われたら、僕は出来ると答える。
そんな風に思える人が今までの人生の中で何人かいた。不思議なことに、性別やセクシャリティーは様々だった。
先日の映画『わたしはロランス』で描かれていることは、こんなことなのかもしれない。
セクシャリティーは、人間の一つの特徴であるけれども、その人自身とは、その人の『心』なのではないだろうか。