太陽の恵み。

梅雨の合間に、真夏の暑い太陽にも負けないようにといろいろな草花を植え込んだ。

蚊がたくさんいる午後を避けて朝早くから完全防備で身を包み、雑草をとりタネを撒き一年草を植えつけた。

それなのに・・・2週間以上も続く梅雨の長雨で太陽を見ることもほとんどなく、せっかく芽を出していた若葉も枯れ、多くの一年草が枯れてしまった。

その後、悔しかったので沖縄から帰ってからしばらくして南国の草花や多年草も植えた。南国の草花は元気に育っていったけど、8月も2周目からはまた稀に見る長雨になってしまい、せっかく植えつけた多年草も枯れた。

植えつけては枯れて、また植えつけては枯れる。枯れた植物を見ながらとても落ち込んだ。

太陽の光の何と偉大なことだろう。

いくら豊かな土と降り続く雨があったところで、植物は光合成もできず衰弱して枯れてしまう。太陽の恵みのおかげで、僕たち生物はこの地球上で生きていられるのだ。

それも、地球と太陽の間の絶妙な距離のなせる技。神様などいないのかもしれないけど、僕たちが適度な温度や湿度の中で生きていられるのは、本当に奇跡的なことに思える。

感謝状。

会社の役員からメールが来て、「なんだろう?」とファイルを開いたら表彰状が入っていた。

『あなたは、社員が選ぶ「私を育てた〇〇人」のおひとりとして選ばれました。・・・この功績に敬意を表するするとともに、心から感謝いたします』

なんのことだかさっぱりわからず、そのままにしていたところ、もう一度メールが来た。するとそこには、会社のアンケートにおいて社員が選ぶ「あなたを育てた〇〇人について」の特別企画があり、このメールを受け取った人は誰かから育てていただいた、ということで名前が挙げられたということ。

そういえば前にそんなアンケートがあって、僕も二人先輩の名前を書いたのを思い出した。ほとんどの社員が誰かを育てた経験があるだろうし、僕と同じようにこの感謝状のメールをもらったことだと思う。

たとえそうであったとしても、後輩の誰かが一人でも僕の名前を書いたのかと思うと、胸が熱くなった。

今はあまり仕事をする意欲が湧かずにいたのだけど、このメールによってほんの少しやる気が出たのだった。

ワクチン1回目。

今日、やっとファイザー社製ワクチン第1回目の接種を終えた。

日頃かかりつけの国際医療大学病院で打ってもらったのだけど、なんの痛みもなくあっという間に終わった。

3週間後に2回目のワクチンを接種できるようだけどそれで一安心かと思いきや、新型コロナウイルスはワクチンを打ったところで完全に防げるものではないようで、重症化しにくく他の人に感染しにくいということのようだ。

僕はこのところ東京へも行かず、ほとんど家族以外の人と長時間過ごすことなく日々暮らしている。

Kが大きな県立の病院(重篤患者が多くいるところ)に勤めていることもあり、僕からKに感染させてしまうことは何としても避けたいからだ。

首都圏だけでなくこの静岡県でも緊急事態宣言がされる中、一日も早い収束を願うばかりだ。

生活保護受給者やホームレス。

僕がまだ10代や20代で、ニューヨークにもしょっちゅう旅行をしていた頃、街にはたくさんのホームレスが溢れかえっていた。

地下鉄に乗っていると紙コップを持って小銭をもらえないかと言って来たり、街中でもホームレスがいたるところにいて座り込んでいたり、メッセージの書かれたボードを持っていたりした。

東京の街中にもホームレスはいて、渋谷の宮下公園や代々木公園なんかにはたくさん暮らしていたし、隅田川沿いにもブルーのビニールシートでできたテントが並んでいるのが当たり前の光景だった。

僕はその頃、「なんで働かないんだろう?」と思っていた。

でも今考えるとその頃の僕は、人々の表層的な部分しか見えていなかったのだ。

今、年を重ねて思うことは、人生には突然予期せぬ荒波が押し寄せたり、結婚生活が破綻したり、大切な家族をある日失ったり、突然仕事を解雇されたり、女手一つで子どもを育てなければならなくなったり、人にはそれぞれ様々な出来事や事情があるということ。

どんな状況にいる人でも、それぞれの人生がある中で生きているということ。

自分の物差しだけで決めつけることではなく、自分とは違う人たちのそれぞれの人生を想像し、敬うことがとても大切なのだと思う。

生活保護受給者も、ホームレスも、皆我々と等しく尊い生命である。生活保護を受ける権利があるし、ホームレスも守られる権利がある。

お金があろうがあるまいが、税金をいくら納めていようがいまいが、そんなものは関係なく皆等しく大切な生命なのだ。

倒木。

僕の家の左隣は空き地で、大きな樹木が山のままの状態で残っている。

大木が何本もあって、椎木やどんぐりの木、コナラなどうちの庭と同じような樹木がそびえ立っっている。

先日雨が大量に降っている時に大きな雷が鳴ったような音がしたのでびっくりして外を見てみると、隣の空き地の大木の上の幹と枝が折れて、道路に崩れ落ちたようだった。


折れた幹の下半分はなんとか崩れずに他の木に寄りかかっているのだけど、よく見ると我が家から伸びている電線にもたれかかっているようだった。

この木の重さがこのままかかっていたら、いつかはこの電線も切れてしまうかもしれない。

「隣の空き地の茂みに入り込み、大木を斬り倒そうか?」と言う僕に、「茂みは背の高さ以上あるから蛇とかいるかもしれないし危険だよ。それに万が一間違って電線が切れちゃったらこの辺一帯停電になっちゃったりするかもしれないから危ないよ」とKが言う。

迷った挙句、不動産屋さんに相談したところ、電力会社に相談しましょうということになった。

山で暮らすことは、こんなトラブルもあるのだなあと、東京での暮らしとの違いを感じている。

つくつくぼうし。

毎日毎日蟬がよく鳴いている。

蟬は、朝早く鳴き始めるけど雨が降ると鳴かずに、少しでも止みそうになるとまた鳴き始める。

この頃は、蟬が道端で最後の命を振り絞り鳴きながら飛んでは落ちてくるのを見かけることもある。

散歩中にその蝉の声に海がびっくりして蝉に近づく。

ひぐらしで始まった蝉の声も、今は油蟬の中につくつくぼうしの声が聞こえ始めた。

ゆっくりと盛夏が過ぎてゆく。

デイサービス。

毎朝海の散歩をしていると、上の桜並木を歩いている時にデイサービスの車を何台も見かける。

熱海の周りには養護施設がとても多いのは、温暖な気候や美しい景色もさることながら、熱海市自体が日本の少し先をいったモデルと言われるように高齢者が多いことも関係しているのだろう。

僕はほぼ毎朝決まった時間に散歩に出るので、決まった時間に止まっているデイサービスの車に遭遇する。介護士さん(ヘルパーさん)は海と僕に挨拶をしてくれ、やがて白髪のおじいさんがおばあさんと一緒に玄関までやってくる。

そこでヘルパーさんがおばあさんの手を取りながら一段一段階段を下り、ゆっくりと助手席におばあさんを乗せる。おばあさんは85歳くらいだろうか?認知症を患っているのかほとんど表情はなく、しゃべることもない。

おじいさんも同じくらいだろうか?うちの父や母の世代に見えるけど、おじいさんはしっかりとしていて僕ともよく挨拶を交わすしおばあさんに話しかけながら笑っている姿を目にすることもある。

おじいさんとおばあさんの家はとてもモダンで、海を見渡せる高台に建っている。きっと朝と夕方は、おじいさんとおばあさんは二人でのんびりと美しい海を見ながら過ごしているのだと思う。

デイサービスのような仕事が普及して来ていてとてもありがたいと思う。おじいさん一人ではおばあさんを一日中面倒を見ることは、もはや不可能だろうから。

僕たちの暮らしの中に、こうしたデイサービスの風景があることは、かわいそうなことや悲しいことではなく、もはや当たり前の日常のシーンになって来たのだ。

若い頃は自分が年を取るなんてあまり実感がわかないものだったけど、誰でも同じように年をとる。

人生の最も後半に差し掛かった時に、貧富の差など関係なく、毎日を家族とともに穏やかに暮らしていけるように支え合える社会になることがとても大切だと思う。

家の周りの人々。

先日、海をいつものように散歩していたら、階段をゆっくりと降りてきた先の家にラブラドールがいて、そこに海から帰ってきた50代後半くらいのご夫婦と30代くらいの子どもなのか友人なのか若い人もいて、挨拶をした。

男性の声はどこか聞き覚えがあって、「あれ?歯医者さん???」と思ったのだけど、片付けに忙しそうだったのでそのまま通り過ぎた。その家は海を見渡せる絶景の家で、夫婦とも歯医者さんなのできっとお金もあるんだろうな・・・と思っていた。

今日、歯医者さんに行ったので聞いたところ、バブル期に買ったそうでその頃は目玉が飛び出るくらい高かったとのこと。僕は、自分が通い出した歯医者さんの家が自分の家から200メートルくらいのところにあった偶然にとても驚いた。

海には、「ララ」というコリーと「ハシ蔵」というゴールデンレトリバーの友達が家の周りにいる。どちらも散歩をしていると会うワンちゃんで、特別仲のいいのがこのララとハシ蔵なのだ。

先日いつも歩いている家のちょうど真上の家の前を通りかかったところ、僕の家の真上の家が「ハシ蔵の家」であることがわかった。ハシ蔵はとても人懐っこく犬にも懐っこいワンちゃんで、いつも爽やかで頭の良さそうな20代後半か30代頭くらいの娘さんが散歩をしている。

その時は娘さんのお母さんもいて、海とハシ蔵がとても仲良くじゃれあっているのを見て、「今度うちでプール出しますので、遊びにきてください!」とお誘いを受けた。お母さんは明るく親しみやすい感じでとても仲よさそうなご家族だなあと思った。

海を連れているおかげで家の周りの様々な人が気安く声をかけてくれることがとてもありがたい。左側の坂を登った絶景にある家には白髪の80代くらいのおじいさんが住んでいて、毎日庭の手入れをしている。海と散歩をしていると決まって声をかけてきて、「本当に可愛いワンちゃんだねえ・・・」と言ってくれる。

夕暮れ時にもおじいさんは時々外に出ていて、夕焼けで染まる海を、飲み物を片手にのんびりと座っていることがある。そして大きな音でオペラのアリアが流れている。

ここに引っ越してきて、少しずつ家の周りの人たちと知り合いながら思うことは、一人一人の物語があるなあということ。もちろんどこで暮らしてもそれぞれの人生の物語はあるのだけど、都会ではあまり近所の人に関心を持たずに生きてきた分、この田舎暮らしで人の顔が見える緩やかな付き合いが新鮮に感じられるのだ。

カブトムシ。

子どもの頃はよく家でカブトムシやクワガタを飼っていた。

幼虫の頃から飼い始めて、孵化してカブトムシになることもあったし、成虫を買ってきて家で眺めていたこともある。

「カブトムシとクワガタと、どっちが強いんだろう?」などと戦わせたこともある。

熱海で家を探しながら、今住んでいる家に見に来た時に、階段の途中にある大きな木にクワガタのオスとメスが並んでいたことを思い出す。ここではこんなに簡単にクワガタがいるのかと驚いたのだった。

そして今、我が家の周りでカブトムシは毎日のように見かけるようになった。

庭の木に止まって樹液を飲んでいたり、夜にリビングの灯りに向かって飛んで来たりするのだ。

庭に栗の木や椎木があるからだろうけど、こんな毎日が都会生まれの僕にはとても新鮮だ。

先日熱海駅に行った際に、窓ガラスのサッシにカブトムシが止まっていた。どうやら迷い込んでしまったようだったので外に逃がしてあげたのだけど、熱海ではカブトムシはとても身近な昆虫なのだ。

ほったらかしの庭で。

今年は梅雨が長く、熱海は2週間くらいほとんど太陽を見ることもなく雨が続いていた。

そのせいで、せっかく植えつけた太陽が好きな植物たちは枯れる事態になった。

いくつかの野菜も植えたのだけど、雨の苦手なトマトなんかは元気が無く、これから復活してくれるだろうか?と思いながら見守っているところ。

庭をいじろうと思っても、このところの暑さと大量の蚊のせいでいまいちやる気が出ずにいたのだけど、今週は海がトレーニングに行っているので今しか時間がないと思い、朝の早い時間だけ庭いじりをすることに決めた。

雑草を無心で取るのがまずは第一にやることだけど、そんな中、キュウリが見事になっているのを発見した。

きゅうりは植えたまま、何の手入れもせずにいたのだけど、僕たちが気づかなかっただけで見事になりはじめていたのだ。

帰ってくるKを驚かせようと、きゅうりの蔓を階段の手すりに絡ませておいた。

Kは驚いて、「何にもしてないのにすごいね!これ、食べごろなんじゃない?」と言ってうれしそうだった。