職人。

今回の撮影では、10年くらい前に一緒に仕事をしたSさんと久しぶりに仕事をした。
Sさんは、とても無口で寡黙な人。放っておいたら一日中一言もしゃべらなかった…なんてこともありそうなくらい静かな人だ。
今回、スチール写真の撮影を、久しぶりに4×5インチのフイルムでやりたいとSさんは言っていた。ここ10年くらいほとんどすべての撮影がデジタル化されている中で、僕にとっても久しぶりのフイルム撮影だった。
フイルムの撮影はデジタルと違って粒子があり、焦点の合ったところから、周りのボケまで、ふんわりとした独特の世界観を表現することができる。それでいて、デジタル写真に慣れすぎている人から見ると、なんだかゆるいようなピントが合っていないような感覚になることもあるようだ。
Sさんの撮影は、とても丁寧で時間がかかる。先日も家の中の撮影をした際に、屋根の庇がシャドーとなってテラスに映り込み始めたら、それがまっすぐに見えるまで待つことになった。
普通のカメラマンだったら、そんなこと気にせず撮影をして、後からレタッチでちょこっと直せばいいや。くらいに思うことだろう。でもSさんは、1時間の光待ちを僕たちに告げた。
それは、Sさんの意志だ。
今やCGの技術は驚くほど進んでいて、撮影した後になんでも修正できるし、削ったり、足したり、なかったものまではめ込んだり、全体の色やトーンを全く変えることだって出来るのだ。
Sさんは、そんななんでも出来てしまう安易さに決して陥ることなくまるで時代のすべてに抗うかのように、洋服の色に拘り、光ったものの映り込みのために障害物を除いたり、どこまでもとことんアナログに拘り続けていた。
そんなSさんと一緒に仕事をすることが出来て、僕はSさんを見ながら背筋の伸びる思いがした。
99%の人々が行く道ではなく、たとえ真逆であっても自分の信じる道を行こうとするSさんは、職人であり、侍のようにかっこいい。

再び、神の島へ。

杭のない鳥居

ゴミのない町

お店は5時ごろ閉まってしまう

午後のフライトで岩国空港、そして宮島へ。
今日の干潮は夜8時ということで、ご飯の前に厳島神社へ行ってみた。
鳥居まで歩けそうだったので、途中から靴を脱いで鳥居へ向かう。干潮時に鳥居を触ると御利益かあるそうで、人が沢山集まっていた。
海の中に毅然と立つ鳥居は、昔から杭などを一切使っていないそうだ。
そればかりか、山の樹々は切ってはいけないということになっているようだ。神の島だから、原生林のままの姿に触れてはいけないとのこと。
鋤や鍬で植物を刈るのもいけないため畑もない。
コンビニはないし、お店は5時ごろ閉まってしまう。
お墓もないし、火葬場もない。
数年前までは選挙ポスターでさえ候補者の名前だけ墨文字で書かれているだけだったようだ。今でも選挙カーは走らない。
神の島だから、神を穢すものはこの島には存在出来ないということだ。
何千年も昔から人々が守って来た言い伝えのまま、神の島として大切にされているこの島の暮らしを見ていると、こういう場所が日本に存在していることを誇らしく思える。
町中に鹿が普通に歩いていて、ゴミなど落ちていない町。
島に来る観光客もきっと、この島へ訪れたことによって、自分の日頃の暮らしに思いを馳せるのではないだろうか。

Mのあしあと。

10年間ともに生きたMが逝った後、実は、息を殺すように生きていた。
どこへ行っても、何を見ても、何を聴いても、何を食べても、Mのことを思い出していた。
映画も観る気が起きず、頑張って観たとしても、観ているうちにMのことを考え出してしまい外に出てしまったり、そんな毎日だった。
友人たちに知れ渡り、二丁目にもMの訃報が流れて少しした後に、バーで会った人に言われた。
「とてもいい人だったよね…」
僕は言葉もなく、目の奥から熱いものがこみ上げて来た。
しばらく経ったのち、偶然パーティーで、Mの好きだったバー『キヌギヌ』のシンスケに会ったので、知っているかもしれないと思いながらMの訃報を伝えた。
シンスケは、僕の目をじっと見たまんま黙っていた。
その後、Mを知るビアンのSから、シンスケから聞いたのかBridgeに泣きながら電話が入ったそうだ。
「Mさん、亡くなってしまったの?本当に?」
そして今日、偶然隣り合わせた若い友人に、知っているかと思いながらMの訃報を伝えたら、その友人の目から涙が溢れ落ちた。
「オーケストラに決まった時にもお祝いしてもらったんですよ…」
僕が10年間ともに生きて、51歳にして亡くなってしまったMは、様々な人の中に、彼なりのやさしさを遺していた。
Mの話を聞くたびに、今でも彼が生きているように感じることがある。
今でも僕のそばにいて、おおらかな笑顔で微笑んでいるように。

恋という奇跡。

年をとると、なかなか恋もしなくなるのではないだろうか。
僕も、前の恋人と別れた時は39歳で、その後誰かを好きになることなどあるのだろうか…と思っていたし、40歳を過ぎて、こんなおっさんを相手にしてくれる人などいるのだろうか…と思っていた。
傷つくのが怖いし、ふたりの関係を作りあげてゆくこともエネルギーがいるのも知っているし、別れも酷い力仕事だし…恋愛に踏み出せずにいる気持ちはとてもよくわかる。ひとりで生きていた方がずっとラクに思えるから。
僕と同世代である友人のXが、若い子に恋をした。
しかも、Xは今までずっと『ブス専』という名を欲しいままにして来たのに、今回の若い子ちゃんはどういうわけだかイケメンで、その方向転換に周りは驚きを隠せなかった…。
Xは、前のつきあいが終わってから13年間もひとりで生きて来たようだ。もちろん、時々色々な出会いはあったものの、僕が知っているここ8年くらいの中では、つまみ食い程度のつきあいしかしていなかったように思う。それが珍しくときめいているようで、目がハートマークになっているのだ。
X「ただしちゃん。Kちゃんとつきあいだした頃、仕事や毎日がやる気マンマンではかどらなかった?」
僕「あんまり覚えてないけど…恋をすると毎日が輝き出すんだよね…」
40歳を過ぎたとしても、人は誰かに恋をするようだ。そしてそれは突然やってくる。
恋愛は、はじまってみないとわからないし、三ヶ月を過ぎる頃どうなっているのか、この先Xたちがどんな関係になってゆくのか、それはふたり次第だし誰にもわからない。
それでも一つ言えることは、今のふたりの輝くような毎日は、人生の中の奇跡のようなものだということ。
恋愛の渦中にいる時は、ジェットコースターのような毎日を思いきり楽しんだ方がいい。
たとえ今回の恋愛が形を変えたとしても、膨らんだり縮んだりしながら、ときめいたこころは、きっと次の恋愛につながってゆく。

バラの日々。

ゴールデンウイークの頃になると、ベランダのバラが咲き始める。
この時期は毎朝起きた時に、「今日はどんなバラが咲いているだろう?」と思いながらベランダに出る。
暑い夏も水やりを欠かさず、時々肥料を与え、病害虫を気づかいながら、1年間過ごした苦労をバラは知っているのか、この季節になると示し合わせたかのように咲いてくれる。
花の時期はおよそ2週間くらいだろうか。
花びらの柔らかいベルベットのような質感、嗅ぎ飽きることのない香り、何千年も前から咲いているオールドローズの形…
毎年毎年、忘れずに咲くバラを見ながら、今年も小さなベランダの植物を育ててきてよかったと思う。

23歳のA。

東京レインボープライドのボランティアスタッフだったAとランチをした。
Aは23歳でシンガポール人、東京大学の学生だ。政治学を勉強している三年生。
これからどんな道に進むのかと聞くと、省庁に入ろうかと思っているようだ。
同性愛は違法であったり、夜は10時半以降お酒は買えないなど、シンガポールの法律が厳しいのでは?などと質問をしても、彼なりの的確な答えが帰ってくる。
A「日常的にはゲイだらけだしレインボーフラッグも外に出している店もあります。お酒はコンビニなどでは買えないけど、レストランやバーでは飲めます。」
僕「経済はうまくいっているみたいだけど、ネットもチェックされていて、明るい北朝鮮などと言われているけど…」
A「シンガポールの法律は、何かが起こる前に作っておくものなので、日常生活ではそれに縛られている感じはありません」
シンガポールの出生率を尋ねてもすぐに答えが返ってくるし、なぜ子どもを持ちたがらないかなども、彼なりの分析で説明してくれる。
僕はこの数年間、どんどん若い人たちと交わるようになってきている。恋人は16歳年下だし、気がつくと、周りは30歳から40歳くらいの友人たちに囲まれているようだ。
自分で意識してそうしているのではなく、なんとなく周りに若い人が増えて来ているのだけど、彼らと一緒にいると、僕自身、ワクワクしてくるし、様々な気づきを得られるような気がする。若い人でも、夢に向かって突き進もうとしている人は、かっこいい。
僕が、もしもう一度23歳になれたら、どんな道に進むだろうか?と考えてみたりもするのも楽しい。
Aは今日これから、6000字の論文に取り掛かるそうだ。
徹夜が続くと日本語を打ち間違えたりするので、早めに取り掛からないといけないんですとつぶやく。
いいなあ。若い人は。

ゲンちゃん。

ゲンちゃんがお店をやめて、13年くらい経っただろうか。
ある時期ゲンちゃんのお店は二丁目では飛ぶ鳥落とす勢いのあるお店だった。新千鳥街にある小さな店にはガチムチの男たちが溢れ、ゲンちゃんは身体を鍛え、時にはハーネスを身につけてお店に立つ日もあった。
トイレには、海外のゲイ雑誌を切り取ったエロい写真が貼りつけられていて、トイレに行くと帰ってくるのに時間がかかった。
ゲンちゃんは、ある日突然倒れた。大きな病気だったのだ。飲み過ぎていたのかもしれないし、ストレスも極限に溜まっていたのかもしれない。その後、ゲンちゃんは仕事をすっぱりと辞めて、隠遁生活と言ってもいいような静かに暮らす日々を送っていた。
久しぶりに会ったゲンちゃんは、身体を鍛えていて、高級なスーツに身を包み、とても元気そうに見えた。間も無くもう一度お店をオープンさせるらしい。
「前の恋人とも昨年末に別れて、自分も身体を鍛えはじめて、次のステージに動いて来た感じがするんだ」
そんな風に話すゲンちゃんは、新しいことに挑戦する期待に胸を膨らませていた。
昔、僕が長くつきあっていたMと一緒に修善寺や京都に旅行した話をした。Mが亡くなったことを先日知らせた時にも、やさしいメールをもらっていたのだ。
人生とは、本当に先の読めないものだと思う。身体を壊し、もう二度とお店に立つことはないと思っていたゲンちゃんが、もう一度お店をオープンするのだ。
ワクワクするような笑顔を見ながら、僕もとてもうれしくて、何度も乾杯を交わした。

みすじ

並みじゃないみすじと並みじゃない赤身

牛タンネギ塩

小さなご飯に巻いて食べるシルクロース

東京で焼肉というと沢山お店があって困るのだけど、僕くらいの年齢になると、肉は量よりもほんの少しいい肉を食べられたらいいという風に変わってきて、最近ではあまり煙もうもうでタレにベッタリ浸かったような焼肉店には行かなくなってしまった。
『みすじ』は、高級焼肉店『よろにく』の2号店でありながら、ちょっと安めに食べられることから、時々行く焼肉店。
実は、Kがはじめて東京に来た時に訪れた思い出の店でもある。今回Kは、東京に遊びに来るにあたって、久しぶりに『みすじ』に行きたいとリクエストをしていたのだ。
お店は赤坂にあり、いつも混み合っているので予約は必ずした方がいい。
ここのオススメは、『並みじゃないみすじ』『並みじゃない赤身』『シルクロース』『シャトーブリアン』だろうか。
タレに頼らずお肉本来の柔らかさと、旨味をしっかり味わうことが出来るので、二人なら、軽く泡か白を一杯飲み、その後赤ワインのボトルなんかに流れるのもよいだろう。
綺麗な店内は、デートにも向いている。
★みすじhttp://tabelog.com/tokyo/A1308/A130801/13114946/

悩めるセクシュアルマイノリティ。

友人のMが急にイロドリに来ると連絡があり、Kを羽田空港に送ってから駆けつけた。Mは二人のゲイの友人と一緒で、そこに僕が加わった。
隣のテーブルには、知らないお客さんが座っていたのだけど、見るからにフェミニンな20代の男性で、いきなり話しかけられた。
「あのー、このお店、LGBTが集まる店と聞いて来たんですけど、そういうのはじめてなんです…」
僕「ここは、いろんなセクシュアリティの人が集まる店なんだ。君はトランス?」
「そうです。でもまだ自分の中でハッキリしていなくて…」
僕「そんな人沢山いるから、自分に合ったペースでいいと思うよ。この店の店員さんもトランスの子がいるから、気軽に話しかけてみてね!」
そしてイロドリのスタッフのところに僕が行って、僕の隣の子はトランスではじめてこういう店に来るみたいだから、話してみて。と言った。
その後、日本におけるセクシュアルマイノリティがどれくらいなのかとか、先日の東京レインボープライドの話、そしてOUT IN JAPANのアドレスを教えて、様々な人たちのカミングアウトストーリーが見れるんだと話した。
Facebookで繋がって欲しいと言われ、繋がったのだけど、暫くして彼のFacebookを見ると、電話をしてついにお母さんにカミングアウトをしたと書かれていた。そして、週末には家族みんなに話すために帰郷するということも書かれていた。
幸い、彼の場合は、お母さんが先に気づいたようで、会話の中で自然にカミングアウトをすることが出来たようだ。お父さんに対してどうなるのかという不安があると書いてあったけど、彼なりに乗り越えていくことが出来るかもしれない。
セクシュアルマイノリティは、ともすれば孤独をかこつ人が多いのかもしれない。自分は他の人とは違っている。自分だけ変態なのだ…。
でも、実はそんなことはなくて、ゲイであれビアンであれトランスであれ、僕の周りには様々なセクシュアリティの人たちが存在しているし、それぞれにもっと幸せになる道を探して生きている。
彼の場合、インターネットでイロドリにたどり着いたようだけど、こんな風にイロドリに来て、自分のままでいいんだ!と思ってくれたなんて、なんと嬉しいことだろうか。
これからも、ひとりでも多くの悩めるセクシュアルマイノリティが、自分らしく生きることが出来ますように…。

味方。

46歳にもなるのに、時々、仕事の忙しさと重圧に疲弊することがある。
連休期間中、なるべくKと過ごすためにプライベートを優先していたのだけど、あまりの仕事メールの多さに僕自身くたびれてしまい、しまいには夜中にクライアントから無理難題のメールが来て酷く落ち込んでいた。
朝になって、僕はなんだか起き上がる気力もなく、ベッドの中でKにしばらく愚痴を言っていた。
僕「年をとったら、もっとラクになるのかと思ってたんだけど、いくつになってももっと大きな問題が降りかかってくるし、働いても働いてもラクにならない…もう、仕事早くやめたいなあ…」
K「ただしくんの会社、早死にだって聞いたよ。もう、会社辞めちゃった方がいいよ」
僕「え?」
K「大分で掃除のおばちゃんやってもいいし、お母さんの家で暮らしたっていいんだから…もう、会社なんてやめてあげて!」
僕の会社の平均寿命が50代だったことを知り、Kは本気で僕のことを心配しているようだ。ストレスで僕が押し潰されてしまうのではないかと、この頃いつも心配してくれる。
ベッドで弱音を吐いてばかりの僕を、後ろからずっと抱きしめながら、僕に早く会社をやめろと言うKの声を聞いていたら、なんだかちょっとかわいくて元気が出てきた。
本当に辛い時に、どんなことがあっても味方でい続けてくれる人がいることは、なんて幸せなことだろうか。
いくつになっても僕は、こんな風に誰かに支えられながら、なんとか生きているのだ。