母との食事。

母の誕生日の翌日、久しぶりに母とお義父さんと食事をした。
中華料理のコースを食べていたのだけど、僕たちが話に夢中になっている間に、最後のメインの肉が運ばれ、ご飯が出た。
メインの肉を食べながら、母が、「あら…ご飯が私には多いわね…」と言った。実際にご飯は、軽く一膳分くらいだったのだけど、コース料理で品数も多く、最後のご飯は僕でさえそれほど食べられないくらいに感じていた。
母は、3割くらいのご飯しか食べることが出来ず、ほとんどご飯が余ってしまい、つぶやいた。
母「ご飯が捨てられてしまうから、私が持って帰るわ」
すかさずお義父さんが言った。
義父「ご飯は余ったら残せばいいよ。そんなの頼むのみっともないよ」
母は、お義父さんのそんな言葉には耳も貸さず、店員さんを呼んだ。
母「このご飯、ビニールの袋か何かに入れてくださいませんか?捨てられてしまうのはもったいないので。
ここに残ってる漬物も一緒でいいのでお願いします」
お義父さんは、「あんた、そんなこと頼んでみっともない」と言ったのだけど、僕は改めて、
「これが僕の母なんだ…」と思ったのだ。
食事の時に、お米を一粒も残さず食べることを教えてくれたのは、母だ。今になると、そんなことは当たり前のことだけど、厳しかった母の躾をありがたいと思う。
母は、小さなビニール袋に入った残り物のご飯を受け取りながら、満足そうに帰って行った。

Nの誕生日。

9月21日は、母の誕生日であり、昔、10年間つきあったNの誕生日でもある。(Nは、2年半前に病気で亡くなった)
この日になると僕は、母に電話をかけながら、同じようにNのことを思い出す。
Nの白い肌と、柔らかい髪、大きな背中と、太い脚。抱きしめられるたびに感じた安心感と、僕を見つめながら泣いていた真っ直ぐな瞳。
子どものように純粋でやさしいこころと、太陽のような笑顔を。
出来るならばもう一度、Nの顔に触れたいと思う。
「ずっと一緒だよ」と、Nの目を見ながら言い聞かせて、うれしそうな笑顔を見たいと思う。
ふたりで体験した思い出は、いつまでも変わることはなく、年を経ても尚、輝いたままそこにある。
ずっと変わることなく、僕を励まし続けてくれている。
N、お誕生日おめでとう。

晴京

ササミ

近江黒鳥とハツ

手羽先

二丁目の仲通りが新宿御苑にぶつかるところに、『晴京』という焼鳥屋さんがある。
店内は広く、心地よい空気が流れていて、8時を過ぎる頃にはほとんどの席が埋まってしまう。
この店の魅力は、正肉が数種類から選べることだろう。東京しゃも、名古屋コーチン、近江黒鳥鶏など、その時にある美味しい鶏肉を食べることが出来る。
せせり、ぼんぢり、ササミ、手羽先など適当に頼んで、カウンターで鳥を焼くのを眺めながら、お酒を飲む。順番に運ばれてくる鶏肉は、どれも美味しい。
たらふく食べて、ふたりで8000円くらいだろうか。こんな便利な場所にありながら、コスパも優れている。
忙しさのあまり、最後の挨拶がなかったりするのが残念だけど、二丁目の心強い料理屋のひとつだろう。
★晴京
03-3354-3126
東京都新宿区新宿2-4-8 第28宮庭マンション 1F
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130402/13173730/

今度生まれてくる時に、セクシュアリティを選べるとしたら。

物心ついた時から男性が好きで、自分がもはや、女性を好きになることは出来ないのだと悟った10代のはじめの頃、自分がゲイで生まれてきたことを素直に受け入れることが出来なかった。
「どうして自分は兄や友人たちとは違って男が好きなんだろう…?」
「自分は子どもも持てないし、みんなが思う幸福な家庭は築けないんだ…」
自分のことをそんな風に思ったものだ。
ゲイで生まれてきたことは、もしかしたらこの世に生まれる前の自分の意志なのかもしれないけど、一般的には、先天性のものだと言われている。そしてこれは、広く世に広めなくてはいけない情報だと思っている。
でも、「僕がゲイになったのは、誰のせいでもない、先天性のものなのです」ということによって、自分がゲイであることを、ほんの少し否定しているようなイメージが確かにあったような気もする。
ここにあげたプロデューサーの映像を見ていると、いつかこんな風に心の底からゲイで生まれてきたことを肯定出来たらいいなあと思うのだ。「ゲイは、創造性、自己発見、そしてユニークさの象徴である」と言いきっている彼の生き様は、多くの悩めるセクシュアルマイノリティにとって力強い存在に違いない。
いつかこんな人になれたらいいなあ。
★「仮に選べたとしても、私はゲイになる」TVプロデューサーは訴えるhttp://www.huffingtonpost.jp/2016/09/14/gay-pride_n_12003900.html?utm_hp_ref=japan

エル・クラン

7年間続いた独裁政治が終わり、民主主義を取り戻しはじめたアルゼンチン。
政府の情報管理官のアルキメデスと妻、息子3人娘2人の7人家族であるプッチオ家は、裕福で何不自由ない豊かな暮らしをしているように見えた。
やがて政府がひっくり返り、アルキメデスは金持ちを誘拐しては、身代金を要求するという残虐な仕事に手を染めてゆく。
これは信じられないけれども、実際にアルゼンチンで存在した家族の物話。
1983年のアルゼンチンがどんな政治情勢だったのか、なかなか僕たちには計り知れないところはあるのだけど、国家の転覆劇と、人々の暮らしはリンクしていたのだろう。
最後まで手にあせ握り、息もつかせぬ素晴らしい演出。
俳優陣が群を抜いているし、カメラワークは天才的、音楽も絶妙だ。
今年、最も驚愕した映画のうちのひとつ。
★エル・クランhttp://el-clan.jp

ととや

刺身の盛り合わせ

煮物の盛り合わせ

鯖の焼きもの

美味しい店がひしめく四谷の荒木町に、『ととや』という居酒屋がある。
店内はカウンターとテーブルがあり、30人くらいの席数だろうか。中はふたりの年配の男性おじさんとおじいさんが穏やかに調理をしている。
カウンターには、新じゃがの煮物なんかの大皿が並んでいて、壁にはその日のオススメの魚や料理が書いてある。
店は、まるで昭和時代に迷い込んだかのような懐かしい曲が流れている。例えば、『上海帰りのリル』のような…。
お店に入ると、おじさんとおじいさんがにこやかに挨拶をしてくれる。「こんばんは!」
それはまるで、昔から知っている常連さんに向けられる挨拶のように。
店の入り口には炭火焼きがあり、新サンマやホッケ、銀ダラや鯖が焼かれていて、店内を炭火焼きのいい香りが満ちている。
お刺身は、その日手に入った状態のいい魚が出される。品数は多くはないけど、なんでもメニューに書いてある店よりもそんな店の方が僕は好きだ。
ナスの煮物や谷中しようが、牛すじの煮込みや新じゃがの煮物、どれも居酒屋の定番料理だ。
鯖の干物は抜群の美味しさだし、最後に食べるいくら丼なども、大きすぎずとてもいい感じ。
居酒屋の鑑のような『ととや』。いつまでも荒木町の片隅にあって欲しい素晴らしいお店だ。
★ととや
03-3357-3319
東京都新宿区荒木町10-17
http://tabelog.com/tokyo/A1309/A130903/13012161/

Kの育った家のこと。

どんなカップルでもそうだけど、ふたりは生まれた場所も周りの環境も違うし、全く違った育ち方をしているものだ。
僕とKは、食事をしている時や、夜眠るベッドの中でよく自分の家族や昔の話をする。
僕「Kの家では、味噌汁は何で出汁を取ってたの?具は何が多かったの?」
K「うちはよく、煮干で出汁をとってそのまま入ってた…具は、お父さんはいつも決まった具材で、人参と玉葱と大根だった。お母さんは、なめことかワカメとか…」
そんな話を聞きながら、大分の田舎町のKの家の食卓を想像するのだ。そして今度味噌汁を作る時は、煮干で出汁を取って、なめこの味噌汁を作ってみる…
先日野菜炒めを作ってふたりで食べている時に、Kがやたら美味しそうに食べるので、どうしてだろう…と思って見ていたら、
K「もやしとかニラを、お母さんがよくこんな風に豚肉と炒めてくれた…しょっちゅう食べてたの…」
そんな話を聞きながら、Kの家族の食卓を思い浮かべる。
自分とは違う家の食事を想像するのは、僕にとってとても楽しいものだ。
時々お母さんが疲れていると、おばあちゃんが食事を手伝ってくれたとか、お父さんは魚が好きで、魚は筋とは反対の方向に切るんだよと教えてくれたとか…
自分の愛する人の、昔育った家の話や家族の話は、いくら聞いていても飽きることがない。
まだ行ったことも見たこともない大分の田舎町のKの実家を、時々たまらなく愛おしく感じるのだ。

友人の病気。

友人Mが、土曜日に頭が痛いと言いだして、救急病院に行った。
頭が痛くて病院に行くなんてよほどの痛みだったのだろう。病院では『頚椎ヘルニア』ではないかと診断されたようだけど、薬が効かず痛みも取れないので、月曜日には大きな大学病院にセカンドオピニオンを求めた。
途中、『髄膜炎』ではないかという疑惑が生まれ、更に詳しく検査をした結果、髄膜炎ではなく、やはり頚椎ヘルニアということがわかった。
病院では、一緒に心配そうに付き添っているMのパートナーに対して、お医者さんが「こちらはどういうご関係なんですか?」と聞かれることもあったそうだけど、「一緒に同居しているパートナーです」と答えると、「なるほど」と一言ですべてを察してくれたらしい。
Mは、頭の痛みがずっと続き、次第に首も動かせなくなり、歯を磨いてうがいをするのも頭を下に向けることが出来ず横になってするような毎日だったそうだ。
食事もひとりではうまく出来ず、パートナーに箸で口に運んでもらいながら食べたり、またうまく食べられなくてこぼしてしまったり、病気になって色々なことを考えたようだ。
「これがもしひとりで暮らしていたら、本当にたいへんだろうと思ったよ」
毎日、心臓が休むことなく動き続けて、血液が身体中を周り、つつがなく過ごせることは、もしかしたら奇跡に近いことなのかもしれない。
友人の病気を心配しつつ、つくづく生命の不思議を感じたのだった。

naefの積み木。

リビングに、naefの積み木がある。
時々、分解しては、何気なく色々な形に積み重ね遊んでみる。
naefは、スイスのメーカーで、家具を作っている時に生まれたのがことの始まり。
naefの積み木は木で出来きているため、手で触っても心地よく、また色彩が美しく遊ばない時でも見ているだけでワクワクしてくる。
機械だけではなく、繊細な手作業が加わるためなのか、この小さな積み木からは、温かなぬくもりが感じられる。

おじの危篤。

母から電話があり、母の兄妹の一番上の兄が危篤状態であることを知らされた。
母は男3人女3人の6人兄弟の下から2番目で、一番上の兄とは、10歳くらいの年の差がある。
毎年健康を気にして、健康診断や検査を受けていたのだけど、ふと思い立って癌専門の病院で検査を受けたところ、膵臓癌が見つかり、癌は身体中他にも転移していて、もう手のつけられない状態だったようだ。
そんな話を聞いた母たち三姉妹は、一番上の兄の家に久しぶりに訪れたそうだ。
おじは、親戚の中ではとても強欲な人で知られていて、裕福だった母の一族に代々伝わる家宝を、自分の兄妹のようにはほとんど分けずに、すべて自分のものにしてしまうような人だった。
一度、すぐ下のおじに屏風をあげたことがあったようだけど、その屏風を鑑定に出したところ、驚くほど高価なものだとわかり、それを上のおじに伝えると、その屏風をもう一度奪い返したこともあった。
祖母が亡くなる時も、自分のところでは祖母を看取らずに、実際には長い間一番下の弟のところで祖母は面倒を見てもらいながら亡くなった。それにも関わらず、葬儀は世間体を考えて自分の家で出すと言って、遺体を運んで葬儀をした。
そんなことがいくつかあって、母も他の兄妹たちも、一番上の兄のところには、全く寄り付かず、交流もほとんど途絶えていたのだった。
おじに癌が見つかり余命もそれほどないと聞いて、母たち三姉妹が元の実家を訪れ、おじの息子に会い、おじに会いに来たから取り次いでくれと告げると、その息子は、お父さんに、他に誰か会いたい人はいないのか?と聞いたのだけど、誰も会いたくないと言っていたと言われたらしい。
結局、母たち三姉妹は、おじに会わずに帰ってきたらしく、「これでも兄妹なのかと思ったわ…」と、母は悲しそうに僕に話していた。
「兄は、とてもお金に執着した人だったけど、最後に幸せだったのかしらね…」
母は、そんな風につぶやいて、ため息をついた。
どんな風に生きようが、その人の人生なのだけど、40を過ぎたあたりから益々思うことは、人生って意外と短いということだ。
死んだ後に大金は残らなくても、できれば、やさしさや温かさのようなものが残るような生き方をしたいと思ったのだった。