ハッピーバースデーひろしさん。

お酒を出して「お客さんカネだよ!カネ!」と叫んでるひろしさん

2丁目で36周年を迎えるお店『ぺんぺん草』のマスターひろしさんが、自称68歳の誕生日を迎えた。本人は、「この年になって誕生日なんて、なんでもないわ。気恥ずかしいだけ」と言っていたが、その気持ちは僕もよくわかる。
店には、偶然いつものように訪れたお客さんばかりで、誰も誕生日のことなど口にすることはなく、高倉健の訃報に話題は持ち切りだった。情報の真偽はわからないのだけど、高倉健は、我々の世界では公然のことのようにこちらの世界の人として有名だ。
ひろしさん「パリダカールラリーで、砂漠の中でやってた話が有名よ」
僕「え?砂漠の中でやったら・・・砂だらけになっちゃうじゃん!」
ひろしさん「馬鹿ね!砂漠のテントの中よ。大きな声が聞こえたんだって!」
話の流れは様々な往年のスターの話題に移ってゆく。
ひろしさん「平幹と仲代達矢と加藤剛は、当時三姉妹って言われていたのよ。」
僕「なんで三姉妹なの?」
ひろしさん「馬鹿ね。三人とも大おねえさんだからじゃないの!」
ひろしさん「当時、加藤剛が絶世の美男子だったのだけど、北海道ロケの時にこっそりと歌右衛門が加藤剛を食べようと思って北海道に行ったら、三島由紀夫も来ていて取り合いになったらしいわ・・・」
僕「恐すぎる・・」
なんだかお化け屋敷のような会話をしながら、こんな2丁目に心和む夜でした。

汐留会。

汐留勤務のゲイが集まって、定期的に食事会をしているのだけど、それもかれこれ、6回目くらいだろうか。今回はB級グルメの店で、総勢16名の参加だった。
今までは、”社内ではノンケを貫き通していると勘違いしているオネエさんたち”が多かったので気を遣っていたのと、その黄色い雄叫びを恐れて個室や、隔離されたスペースで執り行われていたのだけど、今回は店に入ると、完全にノンケ飲み会のスペースに、片側を汐留会が占領する羽目に。
普通は周りは男女だったりするのだけど、16人男ばかり、しかもなんだか短髪ヒゲだらけというのは、冷静に見ると自衛隊か何かにしか見えない感じがした。
皆、それぞれ隣や向かいと話は弾み、Jack’dを一緒に覗き込んだり、どんなタイプが好きかとかセックスの話をしたり…そうかと思うと、端に座っていた若い子からは、裏声のような女子力高めの叫び声が何度も上がって店員さんを驚かせていた。
そんな光景を見ながら、周りはノンケのお客さんが沢山いる中、こうやってゲイが普通に気兼ねもなく好きな男の話や、セックスの話なんかをしているのは、なんて素敵なことだろうと思ったのでした。

はじめての水炊き。

ネギは斜めに切って食べやすく。
キノコ類は、石づきを切り落として、水で洗わないこと。
椎茸は、飾り包丁をこうやって入れるの…。
白菜の茎は茹でると熱くなりすぎて、正方形だと食べにくいので、細く切ること。
鶏肉は、骨付きを使って、一度沸騰した湯の中で下茹して臭みを抜いてから、スープの中へ。
Kの家で、はじめて水炊きを作った。
土鍋はなぜか持っていたので、卓上コンロを買って、あれこれ僕に料理の指導をされながら、素直なKは、僕の言うことをじっと聞いて行動に移してゆく。
こんな風にしながら、今までに少しずつ料理を教えてきた。昔はほとんど料理なんてしなかったKは、今では自分で出汁も引けるし、味噌汁も作れる。
熱い鍋を囲んで、好きな大分の豊潤をちびちび飲みながら、ふたりで家で食べる鍋料理は、ほかにどんな調味料もいらないくらい美味しく感じた。

再び、大分へ。

Kはうさぎのコニーで、僕はクマのブラウンだそうだ。

「東京に行こうかと思っています。
東京で一緒に暮らしませんか?」
Kに突然言われて、どこまで本気なのかわからずに、僕もはっきりとしないまま、時が過ぎていた。
大分の病院で働くKは、3人兄弟の末っ子ということもあり、ご両親もそばに置いておきたい存在だと聞いていた。職場を変わることだって、30を迎える男にとってはリスクに違いない。
そんな、何もかもをKなりに色々考えて、やっと言葉にしたに違いない。
僕は、誰かと100%一緒に暮らしたということがないこともあり、同棲するということに戸惑いがあったのと、離れていると時々不安定になるKのことを思い、ふたりで一緒に暮らすことが少し不安だった。
そんなはっきりとしない僕に、Kはヘソを曲げてしまい、困った僕は、急遽大分に飛ぶことにした。
夕方大分空港に着いて、バスに乗った。
Kに会うことがなかったら、もしかしたらこの大分という地に足を踏むこともなかったかもしれないのに、今は国東の穏やかな海を見ると、いつしか心がほっとするような安堵に包まれる。
バスを降りて、ベンチで座っていると、後ろからKがうれしそうに声をかけてきた。

台湾の友達。

欣葉の有名な杏仁豆腐。弾力がある。

今回、台湾人の友人Elに、妹的存在のGからホテルが安くなるので予約を頼んでいたのだけど、「チェックインはすべて済ませてあるので、フロントで鍵を貰えばいいから…」と言われていたのだけど、驚いたことに支払いまでしてあって、現金をそんなに持って来なかったのでどうしようか?と聞くと、また日本に行ったときでいいとのこと…(ありえない)
6年来の友人のKeは、とてもやさしく繊細な人。しょっちゅう日本にも遊びに来ていたのだけど、鬱病を患っていて2年くらい会うことが出来なかった。久しぶりに西門町のバーで会うことが出来た。しばらく自信を失ってしまっていたのだけど、今は随分回復して元気になっている顔を見ることが出来た。
MEN’S UNOという台湾や香港では有名なファッション誌の副編集長をやっているJuは、社交的なおばちゃんみたいな性格で、東京にもしょっちゅう訪れる。僕に会うたびに、忙しい仕事のこと、人生のことを沢山話してくれる。今回、僕の恋人に会って、一番喜んでくれたのはJuかもしれない。「あなたがこんなに笑顔に溢れているのは彼のおかげ!もっと台湾に一緒にいらっしゃい!」とおせっかいをやいていた。
Alは、Keと同じ53歳。昔恋人を病気で亡くしている。Ke自身も癌を患い、年を重ねてゆく不安も抱えていて話してくれる。持ち前の楽天的なおばさん気質で周りを和ませてくれるし、僕の恋人のKを気に入ったようで、ずっと絡んでいた。
CalとWayは、金曜日にずっと僕が来ることを、Goldfishというゲイバーで待っていてくれたのだけど、Kの飛行機の遅延があり、今回は会うことが叶わなかった。それでも滞在中に何度も連絡をくれて、心配してくれていた。
Odは、台湾大学を出てトヨタに勤めたのちに辞めて、今は恋人の仕事のある北京に住んでいる。毎年このパレードの時期に僕が台湾に来るのを楽しみにしてくれているのだけど、今回は土壇場にインフルエンザになり会えなかったが、僕の恋人が見たいと言って聞かなかった。
台湾に行き始めて6年。毎年毎年様々な台湾人に出会い、交流を深めてきた。彼らは日本が大好きなので、日本に遊びに来て会うこともあるし、しょっちゅう何かにつけメッセージが送られてくる。
一口に台湾人と言っても、みな個性があって違うのだけど、親しみやすくハートの温かい人情味に溢れた人が多いように思う。一度友達になると、様々な局面で僕のことを心配してくれるし、自分の心配事もとつとつと語ってくれる。
僕が繰り返し台湾を訪れたくなるのは、陽だまりのように温かい彼らが台湾にいるからなのだ。

ふたりの宝物。

度小月の担仔麺

欣葉の名物蟹ご飯

太和殿の火鍋

足裏のマッサージに、「痛い!」と声をあげる。
トリュフ入りの小籠包と、蟹味噌入りの小籠包を食べ比べてみる。
火鍋の辛さに驚き、鴨の血を固めた食べ物を恐る恐る食べてみる。
臭豆腐の匂いに顔を歪めながら、無理やり食べさせられる。
浴衣をはじめて着て下駄を履き、食事会やゲイバーをはしごしてみんなに褒められる。
パレードで沢山の写真を撮られる。
朝までくだらない話をしながら、日本人や台湾人の友達と馬鹿騒ぎをする…
ふたりではじめて行った台湾旅行は、Kにとってもはじめてのことだらけで、忘れられない旅行になったようだ。
Kがはじめてのことを経験するのを見ていると、僕も自然と幸せな気持ちになった。
旅行でふたり一緒に体験することは、そのままふたりの宝物になってゆく。

突然のトラブル。

台北の桃園空港には、40分遅れの17:40に着いた。
今回、海外旅行がほぼはじめてのKは、桃園空港からホテルまで、「英語もわからないし、どうやって行ったらいいのかわからない…」と言うので、福岡からのKの便に対して、僕の便は成田から一番近いものにしていた。2時間半僕が空港で待てば、Kに会えるという算段…。
Kの到着は19:20なのに、僕が桃園空港に着いても飛行機に乗ったままのKから、いっこうに飛ぶ気配がないとLINEが来た。飛行機の情報にも、遅延と書かれたまま到着時間が全く出ない。
そうこうしている内に、飛行機に乗ったまま1時間半が経過、エンジントラブルということで飛行機を降ろされる羽目になった。
状況の説明もろくにないまま飛行機で待たされ、今度は飛ばないかもとアナウンスがあり、Kの不安は膨れ上がり、もう台湾には行けないかもしれないと諦めかけた頃、4時間遅れで飛行機が飛ぶことになった。
飛行機が到着したのは、23:10。混雑した入国審査を抜けてKが出てきたのは0時だった。
僕が空港の到着ロビーのベンチで待ち続けたのは、およそ6時間半…。
僕は、Kを待ち続ける間、「こんな突然の予期せぬトラブルの時、人はいったいどうするのだろうか?」と考えていた。
一度飛行機を降ろされた時に、ホテルに行っていたら色々なことが出来たかもしれない。6時間半あったら、台北で友達にも会えたかもしれないし、マッサージをして美味しい夕食だって食べることが出来ただろう…。
それでもKを待ち続けてよかった。入国審査を抜けてKが出口で僕を見つけた時、疲れ果てた顔の中にも、確かな安堵感があったのだから。

2周年目の台風。

先週の大阪で迎えた日曜日、僕たちはつきあい始めてから2周年の記念すべき日だったのだけど、台風の進路が気になり、最後の月曜日は早朝帰らないとならないかな…と話していた。そして、朝起きたらKの書き置きがあった。
「ただしくんには、もっとただしくんに合った人がいると思います」
ホテルの玄関に震えるKを送っていき、僕は一度部屋に戻ってチェックアウトした後、慌ててタクシーで新大阪に行くと、出発前のKを見送ることが出来た。
涙を浮かべたKの顔を見ながら、西へ向かう新幹線のドアが閉まり、なんとも言えぬ気持ちのまま僕も東へ向かう新幹線に飛び乗った…
大阪初日はアメリカ人の友人たちが12時に到着するので、僕がお好み焼き屋をいくつかあたり、予約がどこも出来なかったので早めに店に行き、彼らが来そうなタイミングで並び、なんとかランチを食べた。
Kは夜勤明けで、13時過ぎに大阪に到着。パレードが14時からだったので、ホテルにチェックインするや否や、タクシーでパレード会場へ。Kは、何も食べぬままパレードを歩き、終わった頃に小さな声で僕に、「お腹すいた…」と言った。
慌てて大阪に戻り、二人で明石焼を食べたのだけど、その後も夜のレストランや飲み屋なんかでも、アメリカ人の友人たちにかかりきりで、Kのことを十分に思いはかってあげることが出来なかったのだ。
東京と九州で離れて暮らす僕たちは、ほぼ一ヶ月に一度しか会うことができない。そんな限られた時間の中で、一生懸命お互いに努力をしてやっと2年を迎えけることが出来たのだ。
男同士でつきあっていると言っても、僕たちふたりの関係を保証するものは、実は何もない。お互いのことを信じ続ける以外にないのだ。
「愛されている」「たいせつにされている」という気持ちは目には見えないけれども、離れて暮らすふたりにとって、とても重要なことだ。
Kは、今回の旅行で僕にたいせつにされていないと感じてしまったのかもしれない。(僕に余裕がなくて、疲れてしまっていただけなのだけど…)
その後日にちが経って、ゆっくりと誤解もとけて、Kにまた笑顔が戻った。(ホッ)
人と人が関係を続けていくことは、とても難しいことだ。2年を経た今でも、いつもまた、新しい波がふたりの前に立ちはだかる。

シンガポールからの友人カップル。

シンガポールから、LとJカップルがやってきた。
久しぶりの夕飯は、「しゃぶしゃぶが食べたい!」と言うので、赤坂の『ざくろ』へ。
なんでそんなにしゃぶしゃぶが食べたかったのかと聞くと、やはり前回一緒に旅行した鹿児島で食べた黒豚が忘れられないようだ。
残念ながら、鹿児島で食べるような黒豚がメインのしゃぶしゃぶ店は、東京にはそんなにない。同じ系列店はあるのだけど、『あぢもり』のようなスープにアジがついていてそのまま食べさせる店はないのだ。
楽しかった九州旅行を振り返りながら、大笑いしたのだけど、『松茸の土瓶蒸し』があったので、彼らに松茸を食べたことあるのか聞いてみると、ないと言うので、頼んでみた。
おちょこに出汁を注ぎ、まずはそのまま。香りを嗅ぎながら、どう思うか尋ねると、うっとりとした表情を浮かべて、「ワインでこういう匂いのものがあるよね?」と答えた。
「日本の素晴らしさは、四季折々のお料理があることだよね?」と、何度も香りをかぎながら、楽しんでいた。
彼らは、前回の九州旅行が本当に気に入ったらしく、来年は家族を連れて九州に旅行に来ると言っていた。
一緒に旅行をして、日本の様々な料理や温泉の開放感を味わって、もっともっと日本のことが好きになったようだ。
しゃぶしゃぶ屋さんを出て、タクシーの中で僕が彼らに質問をした。「ラップトップは、持って来た?しゃぶしゃぶ屋さんに置き忘れてない?」
前回別れ際にしゃぶしゃぶ屋さんでランチを食べた後、彼らはタクシーで去って別の所に行き、その後、ラップトップがないことに気づき、レストランで盗まれた!と大騒ぎをしたのだった。
結局、自分たちがホテルのコンシェルジュに預けていたという事の顛末だったのだけど、彼らをちょっといじめてやろうと、もう一度持ち出したのだ。
それを聞くや否や、タクシーの中は大笑いに包まれた。「あの時は本当にすまなかった!!!」
旅にはトラブルもつきものだけど、いろいろな体験を一緒にすることで、僕たちの絆もぐっと強くなったようだ。

Hのお見舞い。

仕事の途中に、友人のお見舞いに行った。
僕より一つ年上のHは、難病のためこの4〜5年は病院の入退院を40回くらい繰り返していた。
そして先日、首の手術をした。
首の手術というのは、神経が集まっているためよほどのことがない限り行わないのだろうけど、Hの場合は半身不随になりかけてしまったのだ。
そこで、首の骨と神経を離し、そこへ放射線を当てるという聞いたこともないような難易度の高い手術が行われることになった。その手術が出来るのは、日本の中でも3つの病院しかないようで、中でも有名な医師のいる都立駒込病院で執り行われた。
手術は無事に成功して、しばらく経って身体も元気を取り戻し、リハビリに励みはじめた頃、やっと僕も面会に行けるようになったのだ。
前にもこのブログに書いたことだけど、僕は常々、Hの強さを尊敬している。
僕のような弱い精神のものならば、何度も繰り返す入退院や得体の知れない病気の恐ろしさで、心が折れてしまっているかもしれないと思うからだ。
音楽家として活躍しながらも、自分のキャリアを今は諦めざるをえないことや、身体が言うことを聞かないもどかしさ…
同年代だからこそわかる、これから年をとっていくなかで、一人でいることの不安など、短い時間の中で色々な話ができた。
僕とKとのささやかな暮らしを、Hは遠くから微笑ましく見守ってくれている。
またHの身体が回復したら、僕たちのレストランirodoriで一緒に食事が出来たらいいなあと思う。
毎日の不自由な病院での生活の中で、Hはさまざまなことを考え、人生で何がたいせつなのかを見通しているかのように見えた。