コピーライターの誇り。

クライアントでのプレゼンの前日、僕とコピーライターGと営業Yの3人でテレカンをしていたのだけど、そこでコピーライターが訥々と話し出した。

G「あの・・・、Yさんがクライアントとのメールのやりとりで、私の書いたコピーを『たたき台』にして明日みんなで話し合いましょうと書いていたのですけど、これってとても失礼だと思うんです」

G「私のコピーは、たたき台ではないし、たたき台を見せられるクライアントもかわいそう。それを愛知アンする私たちってなんなんですか?あなたは私たちのこの仕事自体を貶めているんですよ」

G「私これでも、もう30年以上コピーライターを続けているんです。コピーには私なりにきちんと向き合い自信を持っています。それをあなたのような人にたたき台呼ばわりされたくないです」

営業はひたすら平謝りで、コピーライターはそれでも怒りを抑えることはな買ったのだけど、僕が間に入って、「もっと僕たちの仕事に敬意を払ってください」と伝えた。

どんなに小さな仕事でも、それに誇りを持てることは素晴らしいことだ。残り少ない仕事人生だけど、僕も一つひとつ丁寧に仕事をしていこうと心新たにしたのだった。

ところてん。


僕がこのところ忙しく、今日は一日中外に出っ放しになり帰りも遅めになりそうだった。

Kは午前中で仕事が終わるようで、晩ごはんの準備をしてくれると言うので、楽しみに帰ってきた。

昨日僕が買って置いた鶏肉を、塩麹につけたものと、鶏モモ肉をグリルで焼いたもの、そしてところてん。

ところてんは、前にKのお母さんが送ってくれた天草を、僕がなかなか作らないこともあり、痺れを切らしたKがお母さんに電話をかけながら作り方を聞いて作ったという。

仕事をして家に帰ってきて、晩ごはんが準備してあるって、なんて幸せなことだろうか?

塩麹に漬けた鶏肉は、若干皮が焦げ付いてしまったけど、そんな何もかもを楽しみながら、Kに用意してもらった晩ごはんを感謝していただいた。

こんな暮らしが、いつまでも続いて欲しいと思ったのだ。

母の小包。


僕が茗荷が好きなことを思ってか、畑で取れた茗荷を、母が先々週たくさん送ってくれた。

そして今週、また母から電話があり茗荷の入った小さな小包が届いた。

茗荷はこの時期、畑の至るところでどんどん成長して来るようで、取っても取っても生えてくるのだそうだ。

茗荷に混じって、ピーマンやきゅうり、母が漬けた綺麗な色の茄子やきゅうりの漬物も混じっていた。

時々、庭のハーブ類がビニール袋に入れて入っていることもある。僕がハーブが好きなのを知っていて、家に飾ると思っているのだ。

宅配便を送る日と、到着した日に母から電話が来る。ちゃんと僕が受け取ったか知って安心したいのだろう。

今は特に時間があるからだろうけれども、母はこうやって、いつも僕のことを気にかけてきたのだと思う。

こうして小さな小包をもらってやり取りできる幸せも、永遠には続かないことを思うと、今のありがたさを噛み締めておかなければと思うのだ。

僕の引越しと母の思い。その2

千葉にいる母にとって、東京で暮らす僕がさらに反対側の静岡県に引っ越すことを聞き、急に寂しさを感じているという話はここに書いた。

その後も母が気にかかり、電話をしてみた。

僕「お母さん、熱海に引っ越す話だけどね…今度引っ越す家は少し広いから、お母さんたちがいつでも泊まっていけるような部屋をちゃんと用意するからね…

いつでも来たい時に来て、いたいだけいればいいからね」

母「私が寂しいなんて言うから、あなたに気を遣わせちゃったわね…大丈夫よ。年をとると寂しくなるのよ。おばあちゃんもよく私に言ってたんだけど、それと同じね。

あなたは私たちのことなんか気にせずに、好きなところに住みなさいね」

中学生の時以来、母は父と別居をして、僕は母と、兄は父と暮らしていた。

それからずっと母は僕とふたりだけの生活を続けて、中学、高校、そして僕が大学を出て就職してもしばらく僕と母はふたりだけで暮らしていたのだ。

その僕が29歳の時に、はじめて年上の恋人が出来て家を出ることになった時にも、母は同じように寂しさを口にした。

母は働きながら僕を育てることで、独り身の寂しさを紛らわし、日々過ごしていたのだろう。そんな僕が急に母のもとを離れることを知り、言いようのない寂しさを感じたのだと思う。

でも今思えば、それが母にとっては転機となり、やがて母は現在の夫と知り合い、再婚することになったのだった。

千葉と静岡でたとえ距離は離れていても、いつも気にかけていれば大丈夫だろう。母が健康な今しか、こんなことは出来ないかもしれないと思えたのだった。

僕の引っ越しと母の思い。

熱海への引っ越しを考えはじめてから、もう数軒家を内見に行った。

そんな中で、「ここに住むのもいいかもしれない」と思うような物件にも出会った。

東京を離れることが現実味を持ちはじめた今、千葉で暮らす今年80歳になる母に、引っ越しすることを早めに言わなければという思いから、電話をかけると、

「あら、熱海いいわね。あなたが小さい頃夏によく行ったわね…」

軽く了承したような声だったけど、その後1時間もしないうちに電話が鳴った。

「やっぱり、熱海は遠いから…
お母さんなんだか寂しいわ…
お父さんにはまだ言えないわね…
なんというか分からないし…」

電話を切って、僕も母のことを考えた。

「母の身に何かあった時は、どれくらいの時間で駆け付けられるだろうか?」

「父と母のどちらかが病院や介護施設に入ってしまったら、どれくらいの頻度でそこへ行けるだろうか?」

新しい環境に移る時には、良いことも、不安なこともある。頭の中にぐるぐると色々なことが浮かんだ

でも冷静に考えてみると、熱海から東京駅まではおよそ45分だから、時間にすると今住んでいる渋谷区からとそれほど変わらないのだ。

そう思ってもう一度母に電話をかける。

それでも母の声は、やはり少し寂しそうだった。

期待。

随分長い間、人生の色々な局面において、期待し続けてきた。

「いい学校に進学できますように」

「いい会社に入れますように」

「あの人が好きだから、向こうも自分を好きになってくれますように」

「いい仕事が回ってきますように」

「受賞できますように」

若い頃はとかく、人や物事に期待をするものだ。
自分の思ったように人生が進むことが、一番の幸福だと思っているから。

でも、51歳の僕は、「期待してもいいけど、そうならなくてもいいかも・・・」くらいには思えるようになってきた。

あまり自分の期待が強く大きすぎると、期待通りにいかなかった場合の落胆や傷も深くなるものだ。

でも、たとえ自分の望むようにいかなかったとしても、人生にはその先がきちんと用意されていることがわかるようになった。

最初に望んでいたものが手に入らなかったとしても、紆余曲折して体験したことは自分には貴重な経験になったり、その果てに手に入れたものが、実はしっくりとくるなんてことがあるのが人生。

そう思えると、期待が裏切られた時も、前を向いて飄々と生きていける。

父のお墓参り。

7月10日は、父の誕生日であり命日。父が他界してから12年が経ったようだ。

早朝から墓参りに行き、花を添え、手を合わせた。

父が亡くなってから慌しさにかまけて、父の遺品を整理することもなく、写真や書類をざっくりと袋に入れたまましまっておいたものを、このところ家にばかりいて時間があるので、先日取り出して見てみた。

父の写真や手帳、手紙、何かの新聞に文章を載せたもの。

それからなぜか、僕が小学生の時の通信簿や小学生の頃に書いた作文や絵などが入っていた。

父は、僕が小学生までは一緒に暮していたのだけど、両親の不仲があり僕は母と一緒に家を離れたのだった。

僕の小学生時代の色々なものを大切にとっておいてくれたのは、父らしいと思う。

小学生の頃の通信簿をKが見つけて、興味深そうに見ていたのだけど、突然大笑いするので何かと聞くと、いくつもの通信簿に、

「私語がとても多いので慎むように。私語が多く賑やかすぎる。授業中も友達との会話が止まらない。」

などと、僕がおしゃべりだったことばかりが書かれていたのだ。

墓前で手を合わせ、父に話しかける。

51歳の頃、父はどんな人生だったのだろうか?

父が死ぬまでに、僕は自分がゲイであることを、直接打ち明けることはできなかったのだけど、今はお墓の前でKのことを話して聞かせる。

父に聞いても、もう父の返事は返ってくることはない。

幽霊でもなんでもいいから、もう一度やさしい父に会いたいと思う。

シミ。

キッチンで料理をしていたら、Kが来て言うのだ。

「ただしくん、背中のシミ、皮膚癌かもしれないからお医者さんに診てもらって」

背中にシミが出てきたのは知っているけど、自分では背中は見れないので気にもとめていなかった。

皮膚癌なんて、ヒュー・ジャックマンじゃあるまいし…とも思ったが、念のため皮膚科に行ってみた。

先生「これは、加齢によるシミですね。どれも皮膚癌の心配はありません」

「盛り上がってきて気になるようなら、液体窒素で除去できますよ」

生きていれば、シミも増える。

心の中では、「また、加齢かよ…」と思ったけど、僕が他の人よりも、特に沢山紫外線に当たったとも思えない。普通の子どもと同じように海やプールで泳いでいたくらいだ。

ただ、もともと肌が白く、紫外線に弱いというのはあるのかもしれない。

僕がまだ小学生で、父と一緒に住んでいた頃、父の背中にはシミがあった。

ある日、お風呂から出てきた父が、背中にシミが出てきたと、僕に、ちょっと寂しそうに言った日があったのだ。

僕はその頃の父よりも、ずっと年をとっているのだけれども、あの時の父のせつなさが今、わかる。

父が生きていた頃は、そんなことさえ思い出さなかったものだが、亡くなって10年以上経って、こんな風にふとした時に父のことを思い出す。

父は、僕の背中にいたのだ。

母のマスク。

ずいぶん前に、母から電話があった。

母「あなた、マスクを作ったから、いる?
Kくんの分もあるのよ・・・
お母さん、集中しすぎて手が痛くなったわ」

僕「ああ・・・まだマスクあるから大丈夫だよ。
またなくなったらもらおうかな」

母「あら、そう?お兄ちゃんもおんなじこと言ってたわ。
あなたたち、手作りのマスクなんてつけないのかしら?
わかったわ」

母の声はどこか寂しそうで、そんな話を帰ってきたKにすると、

K「お母さん、かわいそう!
すぐに電話かけてもらってあげて!
でも、郵便局とか行くと危険かな・・・?」

翌朝母に電話をかけて、「せっかく作ってくれたのだから、ありがたくいただくよ。Kが喜んでいたよ」
と伝えると、兄のお嫁さんも同じ反応をして結局兄の家にも送ることにしたそうだ。結局奥さんの考えることは一緒ということか。

そんな母の作ったマスクが、家に届いた。

マスクは純和風で、不恰好だけど、どこかからもらったマスクも一つ入れて、僕とKにとちょうど6枚用意してくれたみたい。

母の不器用なやさしさを、ありがたく感じた。

小さな自然の循環。

我が家には、ここで何度も書いてきた『アメリカザイフリボク』別名『ジューンベリー』という木があって、6月を待たずにいつのまにか実が赤く色づきはじめた。

それを見つけるのは、実は僕よりも鳥たちの方が早くて、ある日、鳥が鳴いているなあ・・・と思ったら、赤く色づきはじめたジューンベリーの実をヒヨドリが食べにきていたのだった。

このジューンベリーには、ヒヨドリの他にもスズメやメジロがやって来る。メジロは大抵2羽でやってきて、小さな可愛い声で鳴いている。

体の大きなヒヨドリは、大きな声でヒー!ヒー!と鳴くのと、全て食べ尽くすくらい貪欲なので、ヒヨドリの声が聞こえたら、ベランダに出て追い払うようにしている。

せっかくなったジューンベリーの赤い実は、できればメジロやスズメにゆっくり食べてもらいたいと思うのだ。

小さな我が家のベランダにアゲハチョウが卵を産み付けに来る。

バラやタイムやレモンの花に蜂が集まってきては、蜜を運んでゆく。

赤くなったジューンベリーの実を、鳥たちが食べに来る。

東京で生きる動物たちに害がないように、僕は無農薬でベランダの植物たちを育てているのだ。