同性婚訴訟:7月8日第2回口頭弁論に向けて。

同性婚訴訟が始まって、第1回口頭弁論があり、今度は7月8日午後3時に、第2回目の口頭弁論がある。
この日もこちらとしては意見陳述を予定していたのだけれども、裁判長が、「‪7月8日‬の第2回期日では、原告の意見陳述を認めない」と言い出したようだ。
しかし、この裁判は、法律上婚姻できないことがどれほど深刻なことなのか、どれほど人の尊厳を傷つけるのかということが理解されて初めて判断できるのではないかと弁護団は考え、第2回目の口頭弁論でも、意見陳述が最悪できないにせよ、こちらとしては出来るように用意をしておこうと判断した。
そこでなぜか、「ただしさん、次回の意見陳述お願い出来ませんか?」と弁護士から連絡があり、たとえ裁判所で意見陳述が出来なかったにせよ、書類を作り送り、準備は整えないといけないということで、僕が書くことになった。
僕とKは、「僕たち捨て駒にされるのかね…かわいそう…ただしくん」などと笑っていたのだけど、昨日の競合作業も一段落したので、一気に意見陳述を書き始めた。
第一回目の意見陳述では、僕は他のふたりの原告の意見陳述を聞きながらとめどなく涙を流していたのだけど、僕には彼らのような、命がけの意見陳述はどうやら書けそうにない。
まあなんとか、僕らしい意見陳述を書くしかないかなと、気合いを入れて書き始めた。
また、7月8日以降に、公開しますね。

会社への、同性パートナーの届け出。

今年の4月から、僕の会社でも同性パートナーの届け出ができるようになった。
届け出には、自治体の証明書、もしくは、証人2人の署名と捺印が必要になるのだけど、この届け出を提出することによって、実はたくさんの権利が認められることがわかった。
◎各種休暇
結婚休暇、妻(パートナー)の出産休暇、服喪休暇、赴任休暇(家族同伴の場合)、看護休暇、未就学児童看護休暇、介護休暇。
◎育児・介護関連制度
育児・介護休業、育児・介護勤務、育児・介護による時差出勤、育児・介護のための時間外・休日勤務の免除、育児・介護のための時間外勤務の制限、育児・介護のための深夜勤務の制限、育児・介護事由の在宅勤務。
◎福利厚生
会社が契約している福利厚生施設の利用、会社主催の行事、結婚挙式(国内)の祝電、弔電(パートナーのみ)※慶弔金は対象ではありません。
こうして見てみると、僕たちにはずっとないものとして考えることもなかった様々な優遇制度が、会社ではたくさんあったのがわかる。僕たちはずっと自分のパートナーを隠し続け、他の人にとっては当たり前のこういった制度を、まったく利用できずにいたのだ。
時代はゆっくりと、しかし確かな方向へと動いているのだ。

ネットの闇。

実は、同性婚訴訟の原告の間で、意見の相違があり、急遽、夜に数人の原告と弁護士で食事をした。
目的は、意見の対立を避けて、妥協点を探すことだったのだが、結果的にはそれは失敗に終わり、原告の一人が降りると言い出す騒ぎにまで発展してしまった。
同性婚訴訟の原告は、いわば、矢面に立たされている存在だ。人によってはネット上のコメントが気になり、追いかけてしまい疲弊するようだ。
それにしてもネットの世界とは、なんと恐ろしい世界だろうか。顔の見えない真っ暗闇の中に、気がついたら吸い込まれてしまう。
Kに、「僕たちは最後まで戦い抜こうね」と言うと、
「Kちゃんは意外に強いから大丈夫。繊細なただしくんよりもずっと強いんだから」
そう言ってKは、僕の顔を触った。
「何があっても、ふたりで頑張ろうね」
「うん」
ふたりでまた、固く誓ったのだった。

同性婚訴訟の裁判所で驚いたこと。

同性婚訴訟で裁判所に行った時に、実はあっと驚いたことがある。それは、傍聴席に古くからの友人のTがちょっこり座っていたことだ。
なぜ僕が驚いたかというと、この訴訟に出る前に、何人かの友人たちと晩ご飯を食べている席で、
「同性婚訴訟に出ようかと思ってるんだよね…色々なバッシングがあるかもしれないけど…」
と切り出したことがあったのだ。その時に友人Tはすかさず、
「俺は友だちがそんなのに出て、ネットで色々言われるのを見たくないな…そんなの出ない方がいいんじゃない?」
と、きっぱりと言っていたのだ。そしてもう一人、友人Sも同じことを言ったのだった。
「ネットの世界で酷いこと書かれるの、友だちとして見てられないわ…」
僕はこういう性格なので、その時は友人たちに相談をしたわけではなくて、「彼らがいったいどう受け止めるのだろう?」と思って話したのだった。
僕の友人たちでさえ、今回の同性婚訴訟に出ることを、素直に賛成してくれる人ばかりではなくて、T やSのようにはっきりとやめた方がいいと言ってくる人もいたのだ。
そんなT にいったい何があったのかはわからないのだけれども、今回の第一回目の意見陳述の傍聴席にいたのだった。
そして、陳述が終わって出てきた僕に向かって、「色々たいへんだろうけど、応援してるから」と言ったのだ。
Tの顔が見れてうれしかった。
たとえ友人たちに反対されたとしても、僕の意志はすでに決まっていたのだけど、今改めて思うことは、この訴訟に出て、心からよかったということ。
だってまるで、映画の中に入ってしまったかのようなシーンが、今まさに僕たちの目の前で起こっているのだから。

同性婚訴訟: 意見陳述(弁護団)

原告ふたりによる意見陳述で涙が頬をつたい、心が千々に乱れた後、今度は3人の弁護士による陳述が始まった。
そしてそれは今までに聞いたことのない鋼のような勇気に溢れ、「どんなことがあろうとも、この原告を我々が守るんだ!」という気概に満ちていた。
弁護士の陳述を聞きながら、ウミガメのように涙は溢れ続けていた。
(以下抜粋)
すべての人が「個人として尊重される」。憲法13条は言っています。人の性は多様で、多様なあり方が尊重されねばならない、それが世界の共通認識です。
いま、日本でも名だたる企業が、同性パートナーを「家族」として扱っています。同性パートナーシップ制度は全国の自治体に広がっています。企業や自治体が、異性でも同性でも「家族」と扱っている、それなのに、国が「家族」と認めない理由はなんでしょうか。
人の価値に違いはない、政府は啓発を進め、各省庁が取り組みを進めています。オリンピック憲章は「性別、性的指向」を理由とする差別を禁止しています。差別を行う企業からの資材・サービスの調達は通報の対象です。オリンピックを進んで誘致した日本が、自国の婚姻制度では人と人を性的指向・性のあり方で差別する、それはなぜなのか。G7諸国で、なぜ日本だけが同性カップルのための制度を持たないのか。
国は、この裁判で、どんな「理由」を持ち出すのでしょうか。しかし、国がどんな理由を繰り出しても、そのたびに、社会と世界の矛盾に立ち往生するはずです。合理的な説明などできないことは、世界の国々で証明され、決着済みです。
それでも国は争い続けるのか。もしそうなら、最後には、「同性を愛する者と異性を愛する者は、人として序列がある。だから、差別し人権を否定する」そう言わざるを得ないのです。
しかし、憲法はそんな主張を絶対に許しません。(弁護団)

同性婚訴訟: 第一回意見陳述(原告)

東京地裁において、同性婚訴訟の第一回意見陳述が行われた。
朝早くからKとふたり、白シャツにネクタイ、ジャケットやスーツを着てタクシーで手を繋ぎながら弁護士会館まで。
裁判の傍聴席は抽選で早くから人が駆けつけて満席になった。今日、意見陳述をする原告はふたり。ゲイとレズビアン一人ずつで、僕やKは後ろで座っている。(Kは顔出ししないように傍聴席にいた)
裁判が始まると、法廷内で2分間の撮影が行われた。撮影がどうやって撮られているのかわからないまま、皆が無言のまま席で身動きせずに異様な佇まいで座っていた。
そして一人ずつ意見陳述が始まった。
僕は、原告仲間たちの意見陳述を聞きながら、とめどなく涙が溢れ出して、途中からハンカチを持って涙を拭い続けた。
意見陳述には、重病を患った彼らの人生が書かれていた。ふたりは明らかに、自分の人生の終わりを覚悟していたのだ。
どうかふたりの陳述をお読みいただきたい。これを読んで、泣かない人がいるだろうか?
(以下抜粋)
自分がゲイであることに気づいたのは中学生の時です。当時、学校では同性愛について何も教えらえず、インターネットもありません。テレビで、男性を好きな男性が「おかま」と呼ばれてあざ笑われている姿を見て、自分がゲイであることは誰にも言えない、と思うようになりました。
ゲイであることは恥ずかしいことではない、笑いものにしたり差別をする社会がおかしいんだ、と考えられるようになったのは、30代になってからです。
同性同士の婚姻が認められることは、私が若いころに持っていた、自分自身に対する否定的な気持ちを、これからの世代の人たちが感じなくてもよい社会にすることなのです。
同性同士で結婚できないことによる不都合はたくさんあります。万が一パートナーが意識不明になった場合、病院は、私ではなくパートナーの親族に連絡をしたり手続きをさせたりするでしょう。
パートナーの最期の時に、私がパートナーの手を握ることは許されないかもしれません。パートナーが亡くなった場合、私は葬儀に参列すらできないかもしれません。パートナーは、周りに対してゲイであることを伝えていないので、これらのことは私にとって現実的な懸念としてのしかかっています。
私はHIV以外にも病気を抱えており、寿命はあと10年あるかどうかだろうと覚悟しています。
死ぬまでの間に、パートナーと法律的にきちんと結婚し、本当の意味での夫夫(ふうふ)になれれば、これに過ぎる喜びはありません。
天国に行くのは私の方が先だろうと思っていますが、最期の時は、お互いに夫夫となったパートナーの手を握って、「ありがとう。幸せだった」と感謝をして天国に向かいたいのです。(佐藤さん)
3年前、私に乳がんが見つかり、抗がん剤治療と左胸全摘の手術をしました。法律で守ってもらえない家族を支えるためになんとかここまで頑張って来たけれど、自分にとってがんが見つかるとは全くの想定外でした。がんはリンパ節にも転移し、目の前が真っ暗になりました。
がんだけでも十分すぎる恐ろしさなのに、西川が家族と認めてもらえるのか、手術の同意書や入院の身元引受人に西川を書いて大丈夫か、手術室までの見送りはできるのかと、次から次へと不安が襲い、自分が潰れてしまいそうでした。男女だったら、こんなに悩まなくて良いのにという考えると、歩いていても涙が止まりませんでした。
抗がん剤の治療は精神的にも肉体的にも厳しいものです。今でも再発の不安は消えません。しかし、わたしは同性カップルなので、パートナーの扶養に入るという選択肢もありません。
また、死を身近に感じても、西川に相続権はなく、私の子供に対する権利や義務はありません。そのような状況で西川に子どもを託していくのかと思うと、死んでも死に切れない思いです。(小野春さん)

ついに、僕の母とKが一緒にランチをすることに。

満開の八重桜

鬱金

関山

週の中頃に母に電話をした。
僕「お母さん。今度の日曜日、ご飯食べようか?」
母「いいわよ。うちに来る?」
僕「お母さん、Kも一緒だから、外の方がいいかと思って…お父さんもKに会えるかわからないし…」
母「あら、そうなの…私は家でもいいけど、あの人がわからないから…それじゃあいつもの銀座アスターにする?」
僕「うん。11時半ね。」
母「お父さんは行くかわからないから、聞いてみるわね」
日曜日、僕はKと一緒に出かけた。Kはまだ僕の家族には会ったことはなかったので、実はこれがはじめての食事会なのだ。
Kはさして緊張することもなく、朝から白いシャツで行くと決めていたようでさっさと着替えていた。
銀座アスターに着くと、せっかちな母は父と一緒に先に着いていた。
母は、Kのことを見ると挨拶をして、「あなた、誰か俳優さんに似てるわね…」などと言っていた。
食事がはじまって、それぞれの話をする。僕がまだKのご両親に会えていないこととか、今回の同性婚訴訟のことなどを。
父もKに対して特別に気をつかう様子もなく、母は、僕と一緒に食事をしている時と、Kがいる時とで、全く何も変わらない。いつかは息子の男に会うことを、すでに予想していたかのようだ。
食事が終わって、いつものように駅で手を振りながら母と父を見送った。
姿の見えない息子の男のことを想像するよりも、実際にKに会うことによって、母や父は安心したように思える。
昔の僕だったら、自分の男を、まさか、親に紹介する日が来るなんて、思いもしなかったのが、今はこうして一緒に食事をしている。
人生は、思いがけない方向に流れていく。それは、僕たちの予想を遥かに超えていて、まるで周りのみんなのチカラが後押ししてくれているようにも思える。
母と別れてKとふたり、またいつものように新宿御苑を散歩しながら、満開を迎えている八重桜と桜吹雪を楽しんだのだ。

Marriage for All Japanの集い。

今日は、同性婚訴訟の弁護団の方々と、東京の原告6カップル12名が揃って親睦会をした。
我々原告団の目的は、この国において同性婚が認められる社会にすることであり1つなのだけど、実は原告団の中でもメディアへの出方などに考え方の相違があり、会って話した方が良いかと思いこんな会を持つことにしたのだった。
今年の東京レインボープライドで、Marriage For All Japanがフロートを出すことになり、そのフロートに原告が乗る乗らないという話があり、それぞれの考え方の違いが浮き彫りになっていたのだ。
同性婚訴訟がはじまって、原告の中には反対派の意見などを追いかけ続けている人がいて、ちょっと精神的にも疲弊していて心配になってしまった。
僕は、LGBTの中の反対派の意見を聞いて、彼らの考え方を変えようなどとはサラサラ思っていない。
反対する人の意見には、その人の中に強いホモフォビアがしっかりとはびこっていて、問題は周りではなく、その人自身の中にあることが多いからだ。
僕がもっと必要だと思っていることは、日本中の浮動票に、LGBTに関する正確な知識を啓発すること。僕の母のような、何も知らずに生きてきた人たちに、正確な情報を届けることだ。
原告同士、考え方の違いを話し合って、僕たちは少し結束が強まった気がする。

母の変化。

先月、母と父と食事をしようとしたら、雪が降るとの予報で、東京はほとんど降らなかったのだけど千葉では結構降ったようで予定をキャンセルした。
12月に父と母に今回の『同性婚訴訟』に原告として出るという話をした後に、父と母には正確な知識を持ってもらうために本を数冊送ってあった。
実のところ、その本を読んだのかどうかはわからない。その後、2月14日の提訴の日に。母がテレビのチャンネルをいじっていたら、いきなり僕が映ったようで、その場で電話をくれて、「あなた、あんなことで有名にならなくても、もっと他のことでテレビに出るようにすればいいのに・・・」などと言っていたことはここに書いたhttp://jingumae.petit.cc/banana/2856050。
そこで、今週末は久しぶりに食事をしようかと電話で切り出すと、母が言った。
「あなた、こないだマラソンで走っていたでしょう?・・・昭和記念公園の・・・」
僕は、ごく親しい友人たちが企画して先週末の土曜日に行われた『レインボーマラソン』のことだとすぐにわかり、笑いながら「僕はマラソンには出なかったよ」と告げた。
「あらそう?あなたみたいな人が走っていたから・・・」
母はあれからきっと、テレビや新聞で、ゲイだとかLGBTだとかの文字を気に留めて追いかけているのだろう。自分では息子の性的指向を未だに受け止められていないのかもしれないけど、母なりに関心を持ち気にしてくれていたのだと思う。母が再婚して、今は僕の父でもある父は、急に義理の息子にカミングアウトをされて、今はまだ、どうしたらいいのかわからないに違いない。
そうであっても、今まで通り、僕たちは週末にいっしょにご飯を食べる約束をした。
母は久しぶりの僕との食事がうれしいのか、自らお店を選んで予約を入れてくれたようだ。
今までは僕の性的指向に気づいていただけの母も、僕から駄目押しをされて最初は少し戸惑ったようだった。時間がかかったとしても、母は本当の僕のことを目をそらさずにゆっくりと受け入れはじめたようだ。

同性婚訴訟のあとに。

Kが家に帰ってきて、「お母さんに電話するね」と言って寝室に入ってしまった。
しばらくして食事の支度が出来た頃、Kが出てきてお母さんとの会話を聞かせてくれた。
K「お母さんね…ただしくんがテレビで話してるところ見たって言ってた。Kちゃんも隣に座っていたって…」
僕「へー…うちにテレビないから僕たちは見てないのに、意外と出ていたのかね?なんか言ってた?」
K「お母さんね…ただしくんのこと、やさしそうな人ねって言ってた」
僕「へー、そんなちょっとでわかるのかね?」
Kのご両親には、僕はまだ会えていない。昨年の秋に東京にいらっしゃると言うので、その時に会うつもりでいたのだけど、お父様の病気で手術をすることになり急遽東京行きを取りやめたのだった。
そして今回の同性婚訴訟に関しては、お父様としてはあまりやって欲しくはないという話を聞いていたのだ。
九州の田舎で暮らすご両親にとって、人目が気になったのだろうし、お兄さんの子ども(Kの甥っ子)がいじめられるかもしれないとか、様々な心配をしていたのだった。
結局僕たちは話し合った結果、訴訟に臨んだのだけど、僕はご両親たちがその後僕たちの今回の一件をどう思っているか気がかりだったのだ。
お母さんの反応を聞いて、僕もほんの少し安心した。
いつかのタイミングできちんとお会いした時に、この同性婚訴訟が僕たちにとってどんなに大切な訴訟なのか、Kのご両親ともきちんと話が出来たらいいなあと思っている。