Nに会いに、和歌山へ。2

暖かい青空が広がる中、鄙びた駅を降りると、辺りは遠く山々に囲まれていた。
山の中にある古いお寺に着いたら、静かに風が吹いて、鳥がさえずり、大きな木が豊かに枝を広げていて、なんとも言えない山のいい匂いがした。
「会いに来たよ。N。いいところをえらんだね。」
お墓に着いて、シャンパンを開けて、家から持って行ったグラスで乾杯をした。
Nの好きだったお弁当を広げ、僕もお弁当を食べながら、心ゆくまで話しをした。
お墓になんか、もうNはいないのかもしれない。でも、そんなことは僕にはどうでもよかったのだ。
自分でも、「どんだけドラマクイーンなんだろう…」と思うけど、もし僕がNより先に死んだら、きっとNも僕と同じことをしたと思う。
「そばにいられなくて、ごめんね」
「愛しているよ」
「ありがとう」
人は、死んでしまったら、いったいどこに行くのだろう?
本当のところはわからない。でも僕はまた、来世なのかどこかでNに会えると思うことが出来る。
帰り際、お寺を振り返ると、もう一度山のいい匂いがした。
胸いっぱいに吸い込んで、「また、会いに来るからね」とNに言った。
※Nの訃報が二丁目に流れたのと、この、個人的なこともなんでも書いちゃうブログにより、友人たちから様々なメールをいただいた。
「ハグしてあげたい」
「ユーミンの曲「夜空でつながっている」を聞いてみて」
「早く元気を出して」
「終わりじゃなくて、状況がほんの少し変わっただけだよ」
「これからは僕が姐さんを守ります」
夕飯や飲みの誘いなど、友人たちの温かい気遣いに励まされ続けている。
僕は、大丈夫です。時間がかかるかもしれないけど、少しずつ立ち直ります。
この場を借りて、もう一度大好きな友人たちに感謝の気持ちを伝えたいと思う。
ほんとうに、ありがとう!

Nに会いに、和歌山へ。1

「待っててね。N。いま会いに行くからね。」
今週は、何度もNに語りかけるように過ごしていた。
たった今、朝の便で関空へ着いたところ。これからバスで和歌山駅に、そしてそこから1時間以上かけて由良という町へ向かう。
実はNは、昨年の桜の咲く時期に亡くなっていた。
およそ1年も過ぎてそれを知らされたのは、もしかしたらNが僕のことを気遣ってのことなのかもしれない。
Nは、僕の性格を知り抜いていた。自分が弱って死んでゆく姿をもし僕に見せたら、僕が悲しみのあまり壊れてしまうだろうと思ったのかもしれない。
結婚をしていたNは、いつも僕に言っていた。「もしもの時には、お前だけは緊急治療室にでも入れるように、奥さんと姉とお母さんに言ってあるから…」
実際に、Nのお姉さんは二丁目にも来たことがあるし僕たちの全てを知っていた。お母さんにも何度も会っていたし、奥さんは、恐らく僕とNとの関係をわかっていたのだと思う。
今の僕にたった一つ心残りがあるとしたら、Nが痛みを感じている時、苦しい時に、ずっとそばにいて手を握りしめていたかったということだ。
どこか知らない遠くへ旅立つNに、いつだって僕がそばにいると言ってあげたかった。

渋谷区議会に、陳情へ。

『change.org』において、『渋谷区同性パートナー証明書』に賛成してくださり、誠にありがとうございました!(この細々とやっているブログからも何名もご署名していただき、とてもうれしかったです)
11,080名の方々のご署名とともに、『渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例案』に関する陳情書を提出に、渋谷区議会に妹のGについて一緒に行ってきました。
来週の25日26日に審議があり、3月31日に決議になる予定のようです。
このところ、神宮前ファミリーと友人たち総出で、新聞からテレビに出まくり、まるで僕までもLGBTアクティビストのように周りからは思われているようですが、僕がアクティビストなのではなく、たまたま周りがアクティビストばかりなのです。
様々な反対意見に耳を傾けつつも、でもどうしても今回の条例案が決議されることを願っています。
31日には、またみんなで渋谷区議会に行って、『Thank You, SHIBUYA!』のボードを挙げるつもりです!

いま手にしているものを、慈しむこと。

祖母の葬儀の時に、母が泣いていた。
その姿を見ながら、まだ学生だった僕も悲しかった。
そして、「お母さんは、なんであれほど泣いているんだろう…」と思っていたのを覚えている。
やがて僕も年を取り、7年前に父が亡くなった時に、昔、母があれほど泣いていた意味がはじめてわかった。
親を喪うということは、僕の想像を遥かに越える悲しみであり、痛みをともなう苦しみだったのだ。
そしていま、かつて自分の生命よりもたいせつに思っていたNを喪い、人生にはこれほど苦しいことがまだあったのか…と打ちのめされた。
人は生まれて、生きて、死んでゆくだけだ。
いま手にしているもの、いまそばにある人を、できるだけ慈しむことだけが、ただ僕たちに出来ることなのだろう。
自分の親であれ、恋人であれ、友人であれ、愛する人に、愛している気持ちを伝えよう。
いずれ愛する人が、その手を離れていってしまったとしても、愛していた、愛されていたという記憶は、温かいものとなって僕たちの中に残り、いつも励まし、支え続けてくれるだろう。

いまゐ

春の寄せ集め

お造り

竹の子とホタルイカ

東京にある割烹で、気軽に入れる店は珍しい。『いまゐ』は、新宿御苑前にあって手頃な値段でコース料理を楽しむことが出来る良店だ。
以前は新宿二丁目の御苑側の路地にあった小さな和食店だったが、ネットであっと言う間に評判になり、現在の少し大きな店に移転して値段も5000円から6500円に値上がりした。
白魚、ハマグリ、そら豆、ホタルイカ、竹の子…季節の食材をふんだんに取り入れた和食は、行く時によって驚きがある。
大将はまだ30代半ばくらいだろうか、寡黙だけど話すととてもやさしい人柄が伝わってくる。
京都の割烹料理屋は、世界一の和食文化を誇ると思うし、東京のどんな和食屋も全く太刀打ち出来ないと思うのだが、手頃な値段で東京で和食を楽しめる『いまゐ』は、とても貴重な店だと思う。
★いまゐhttp://tabelog.com/tokyo/A1304/A130402/13130365/

押入れの奥のダンボール箱。

寝室の押入れの奥には、大きなダンボール箱がそっと眠っている。
中には、僕が10年間つきあった前の恋人Nとの旅行や、ふたりで過ごした日々の膨大な写真のアルバムが詰まっている。
何度も行ったふたりの愛するイタリア各地の写真、スペインのお城を泊り歩いた写真、パリやニューヨークにも何度も行ったっけ。パリやバルセロナやフィレンツェで迎えた年明け、京都の割烹の写真、福岡の寿司屋さん、能登半島のドライブ…
7年前にNと別れてから、僕は何度もこのアルバムを処分しようか迷いながら、結局は押入れの奥にそっとしまったまま、中を覗き込むことはなかった。
昔よくNは、「俺が死ぬ時は、このアルバムを一緒に棺桶の中に入れてくれ。俺はそれで十分幸福だから…」と何度も僕に言っていた。
Nには奥さんがいて、Nはそれでも僕の家にほとんど寝泊まりしながら、僕に惨めな思いをさせないように、精一杯努力をし続けてくれていた。
N「お前にだけは、日陰者のような思いをさせたくないから。お前は、俺と結婚したんだから。この先も、ずっとずっと一緒だから…」
僕の母が入院した時は、手作りのお弁当を持って来てくれた。
風邪をひいて高熱で僕が会社を休むと、自分の仕事なんかほっぽらかして車で僕を迎えに来て、自分のかかりつけのお医者さんに連れて行ってくれた…。
太陽のようなあの笑顔を、もう二度と見れなくなる日がこんなに早く来るなんて、思っても見なかった。
やさしい顔に触れることも出来ず、大きな身体にハグしてもらうことも、もう叶わなくなってしまった。
僕の人生の中で、あんなに誰かに愛されて、あんなに完全にひとりの人を愛していた10年間はなかった。そしてそれは、Nも同じ気持ちでいてくれたと思う。
あまりにも勝手な言い方だけど、Nが目を閉じる時に、僕と過ごした幸福な時間を、どうか一瞬でも思い出していてくれていたらと願う。
ありがとう。N
またね。

小さなもの。

僕の家の洗面所には、Kが来た時のためにKが使用するコンタクトレンズのケースが2つ、ぽつんと置かれている。
検査技師という仕事柄、雑菌を嫌うKは、その左右のコンタクトレンズのケースが棚に直に触れないように、キッチンペーパーを小さく折り畳んで敷いていた。
Kが金曜日にノンケの友人と熱海に旅行に行く時に、家の洗面所からコンタクトレンズのケースも持って行ったようだった。
そして日曜日に、大分に向けてKが新幹線に乗った後、洗面所にコンタクトレンズのケースがなくなったままだった。
それに気づいた僕は、なんだか急に寂しくなった。
いつもは、なんでいちいちキッチンペーパーなんか下に敷くんだろう?と思っていたはずなのに、丁寧に折られた小さなキッチンペーパーでさえ、今となっては懐かしく感じられた。
僕は毎日、そんな小さなケースを時々横目で眺めながら歯を磨いたり、髭を剃ったりしていたのだ。
誰かとつきあうと、今までなんでもなかった小さなものが、自分にとって意味を持つことがある。

OASIS

ROBERTA FLACKがこのアルバムを出したのは27年前。
その頃、週末に2丁目に遊びに来てはZIPに遊びに行くというのがみんなのお決まりのコースで、オーナーであるミッキーは僕が15歳くらいの頃から知っていた。
ミッキーは、二丁目で一番流行った店と言われるZIPの後、ARTY FARTYという少し年上を狙った店をオープンさせて、2丁目のムーブメントを築き上げて来た人だった。
そんなミッキーが今年の初めに亡くなったことを人づてに聞いて、ミッキーを懐かしく思い出していた。
このアルバムが出た当初、ミッキーとも話題にしたもので、ミッキーがOASISの発音を英語風にオエィスィスという感じに得意げに話していたのを覚えている。
このアルバムは僕にとっては衝撃的で、アフリカの乾いた大地を思わせるサウンドに鳥肌が立ったものだ。
ROBERTA FLACKの有名な曲は”killing me softly with his song”など沢山あるけど、4年前くらいだろうか、ニューヨークでライブに行った時に、彼女のプロ意識に改めて感動したものだ。
それは、どの曲であってもライブであるという雑さが全く感じられず、完璧なパフォーマンスだったから。
今日はなぜだか、ふとミッキーを思い出して、”OASIS”をかけてみた。
はじめから最後までほとんどサビのような曲は、今聴いても強く心に訴えかけてくる。アルバム全体を貫くアフリカ色の濃さは、まだ見ぬ大地を想像させてくれる。
ミッキーもきっと、2丁目のことも忘れて今頃はOASISにいるのかもしれない。
★OASIShttps://m.youtube.com/watch?v=1rJY06otS0k

親戚のおじさん。

週末にKがやって来たのは僕に会うためではなくて、学生時代のノンケの友達と二人で熱海に旅行するのが目的だった。大分には別府や湯布院があるのに、なぜにわざわざ熱海に来るのか?と疑問に思ったが、熱海にどうしても行ってみたいそうだ。
友達よりも1日早めに東京に入って僕の家で一泊してから、熱海で広島からくるノンケ君に合流して一泊した後、今度は二人で東京を観光するという予定。
東京のホテルはこの時期とても混み合っているようで、なかなか希望の安いホテルが取れなくて、Kは僕にホテルの予約を頼んできた。
なんとかお茶の水のホテルが取れて、東京ではKだけ僕の家に泊まることにしたのだけど、ノンケ君には僕のことをなんて言ってるのかと聞くと、
「親戚のおじさんの家に泊まると言ってある」と、返事が返って来た。
「ホテルも親戚のおじさんが取ってくれるって言ってある」
「なんで東京に住んでいるの?とか聞かれたらどうするの?」
「本家に婿養子に入ったけど、離婚して東京に住んでるおじさん」と答える。
これは以前、福岡の寿司屋さんで二人の関係を聞かれた時に、Kが咄嗟に思いつきで話した僕たちの相関図だ。
16歳違いの男同士が一緒にいること自体、よくよく考えると世間ではあまり見かけない光景だし、保守的なKからしたら、変な疑いをかけられることをとても気にしているようだ。
そして僕は、そんなふたりの微妙な年の差に対して、他の人たちが反応すること自体、とても面白いと思っている。
時々、お揃いの靴とも取れるニューバランスを二人で履いていると、電車なんかでも足元を見られる気がする。
僕はそんな人たちの顔を見ながら、ニッコリと微笑んでみたくなる。

OUT IN JAPAN 3

前にもここに取り上げた『OUT IN JAPAN』。
レスリー・キーによる撮影会が、3月24日25日に迫って来た。
ミュージカル『RENT』のキャストの撮影と一緒に行われる撮影会は、二日間で50人を目指している。思い思いの、自分らしい洋服を着たセクシュアルマイノリティーの人たちに、GAPの洋服を一つ選んで身につけてもらって撮影に臨んでいただく。
時間のない中で募集が始まったのだけど、友人たちに撮影に来ない?と声をかけても、「出たい気もするけど、実質的なカミングアウトだと思うとやはり躊躇してしまう」とか、カップルに声をかけても、「片方は出られるけど、一人はやはり顔出ししたくない…」という返事が返ってくる。
それだけカミングアウトというものは、僕たちにとってものすごく勇気のいることなのだと思うとともに、この国ではいかにセクシュアルマイノリティが自分のセクシュアリティをひた隠しにしながら息を殺して生きているのだろうか…と思いいたる。
17日火曜日午前中まで募集は行われている。今回、撮影に来られなかったとしても、第2回第3回と撮影会は続けていく予定なので、その気になったら応募してみてください。お待ちしております!
★OUT IN JAPANhttp://goodagingyells.net/join/
★GQ http://gqjapan.jp/fashion/news/20150310/gap-supports-tokyo-rainbow-pride-out-in-japan