OUT IN JAPAN 4

あまりにも幸福な2日間の撮影が終わった。
募集の告知から締切の時間がなかったにも関わらず、沢山のご応募をいただき、総勢82名、67カットの撮影が行われた。
2日目の撮影中、70人を終えたあたり時計が真夜中を回った頃、カメラマンのレスリーが撮影を待っている椅子に座った人たちに聞いた。
「あと何人くらいかな?その列まで?その後ろの席は?」
 
すると、参加者の後ろに座っていたGAPのスタイリストの方たちが3人、すべての人の衣装を選び終わって最後列に座っていたのだけど、その中の一人の男性が手で大きく×を作って見せた。
それを見たレスリーはちょっと態度が変わり、その男性を呼んで聞いた。
レスリー「今の×は、どういう意味ですか?」
スタイリストの男性はしどろもどろになり答える。「いや、この列は違うと言うことを伝えたかっただけです・・・」
レスリー「いや、僕はそういう風に見えなかった。なんだか自分はゲイとかではないと言いたい感じに見えました・・・ゲイとあなたと、いったい何か違うの?ゲイはダメなの?何がいけないの?」
スタイリスト「い、いえ・・・そんなこと思ってないです・・・」
スタイリストさんは、本当はそんなに深く考えずに、『自分は違う』というサインを送ったのだろう。
でもレスリーや僕たちスタッフを含めて、このプロジェクトに関わっている人たちはみんな一体となり、参加者一人一人がこの場に来てくださっていることに感動していたし、最大限の敬意をはらっていたのだ。
子どもが生まれたビアンのカップル、国籍の違うゲイのカップル、あまりにも幸福そうなオーラを放つゲイのカップル、ぶっ飛んだファッションのゲイの若者、男にしか見えないFtM、妖艶な花のようなMtF、日本のゲイのムーブメントを築いて来たゲイの大御所たち…
年齢もセクシュアリティもさまざまでありながら、それぞれに自分らしく生きてきた人たち。
短い時間の中で接する彼らから感じられるものは、一人一人が生きてきたストーリーであり、いまこの撮影に臨む勇気だった。
★OUT IN JAPANhttp://gqjapan.jp/fashion/news/20150310/gap-supports-tokyo-rainbow-pride-out-in-japan
http://genxy-net.com/post_theme04/lgbt20150306/

総合治療院。

身体は、日頃の習慣から、楽な姿勢で過ごすことを無意識に選ぶので、デスクに座ってパソコンを見ていることが多い僕は、自然と少し猫背になり、肩甲骨も開き気味の姿勢だ。
根本的に姿勢を変えたいと思いつつ、なかなかどこから手をつけたらいいのかわからなかったのだけど、ジムとは別に体幹をより意識するようにとスポーツ治療院に行き始めた。
そこはある日、irodoriのスタッフにマッサージをすすめられて行った所なのだけど、マッサージをしている間、隣がやけに声のデカイおっさん2人だと思ったら、ベイスターズの選手で、隣ではなく一番奥にいたのだ。(声がデカすぎた)
治療院はスペースがあって簡単な器具があり、プロ野球の選手や大学野球の人たちが治療とパフォーマンス向上のために来ていたのだ。
僕の目標は、股関節を柔軟にすることと、肩甲骨の可動域を上げること。それによって、お腹周りをもう少しすっきりさせたいことと、上半身のパフォーマンスをアップさせること。
1時間、みっちり体幹を鍛える運動をして、日頃やっている腹筋では、効いていない部分を実感した。
例えば、身体を丸めて上半身を持ち上げても、腹筋の上の方しか効いておらず、脂肪のつきやすい下腹部はほとんど動かされていないのだ。
また、反対に脚を上げる腹筋運動においても、脚力の強い僕は、比較的脚の力を使って持ち上げてしまうので、一番効かせたい腹筋には、ほとんど効いていない。そこはやはり、脚の付け根から上げる意識が大切…という具合。
終わってヘトヘトになってロッカーで着替えていた時に、先に着替え終わった野球部君が、「お疲れ様でした!」と僕に言って帰って言った。(野球部の先輩とでも思ったのだろうか?せいぜいヤカンを持つことしか出来ないのだが)
また一つ、密かな楽しみの場が増えました…。
★総合治療院テコセンターhttp://tecocenter.jp/access/

おかえりなさい

数日前に、かつての恋人Nが亡くなったことを知って、途方に暮れた僕は、今の恋人Kに知らせた。
するとKは、すぐにLINEを送ってきた。
K「その人も、きっと幸せだったよ」
僕「Kは僕と2年半一緒にいて幸せだった?」
K「幸せだった…」
K「でも、もっとやさしくしてあげて!」
数日間、悲痛に暮れる僕を、Kはじっと見守っていた。
和歌山にお墓参りに行くと言った時も、「きっと喜ぶよ」と言ってくれた。
本当は、Kも不安だったに違いない。
自分の恋人が、昔の恋人をあまりにも深く愛していたことを知って、驚いたに違いない。
長旅からヘトヘトになって帰った僕に、
いつものようにKからメッセージが届いた。
「おかえりなさい」

友人のお母さんに会いに、神戸へ。2

和歌山に来たので、大阪まで出て一泊して、神戸の施設に入っている友人Mのお母さんに会いに行った。
Mのお母さんは90歳。昔はよく東京に遊びに来ていたのだけど、80代後半くらいから足腰が弱り、今は神戸の施設に入っている。今年の1月に来た時に、「桜の咲く頃遊びに来ますね」と言っていたのだ。
阪急で京都のお弁当を買って、若竹煮と蕗の煮浸しを買って部屋を覗くと、お母さんはベッドに横になってテレビを見ていた。
僕の顔を見るなり、「まあ、わざわざ私なんかのためにこんな遠い所まで来てくださって…」と言って手を合わせて泣き続けた。
昼食の時間になり、応接室でお母さんに買ってきたお弁当を広げた。東京に遊びに来ていた時は、どんな料理も楽しそうによく食べていたのだけど、どうやら俵になった白米を切る手が震えている…
レンコンを口に運んだのだけど、硬くて噛みきれず、思わず一旦外に出した…。
途中から見ていられなくて、出汁巻きを切ったり、かぼちゃを切ったりしながら、僕が箸を使ってお母さんの口の中に運んだ。
お母さんは90歳になって、色々なことが出来なくなって来たという。「老人が食事を食べるのを見ているのは、汚いと思うでしょ?」とか、「本当にごめんなさいね。うまく食べられなくて…」と言って泣いたりする。
僕は、「僕でも誰でもやがて順番に年をとるんですよ。お母さん。ゆっくり召し上がってくださいね」と言って、おかずをお母さんの口に運んだ。「おいしいわ。よく作ってあるのね。」と言って食べているお母さんを見ていて、僕もうれしかった。
よく、「年をとると、どんどん子どもみたいになってゆく」なんて言うことがある。そういう一面もあるけど、僕の接してきたお年寄りは、自分を子ども扱いされるのを好まないし、実は周りに助けられていることが、周りの負担になっていることを繊細に感じ取っていたり、自分が些細なことさえ出来ないことで落ち込んだりする、ひとりの大人として誇りを持っていることが多い。
「また来ますね。お母さん。」と言うと、「ただしさん、抱っこさせてください。」と言うので、何度も何度も小さな身体を抱きしめた。
★友人のお母さんに会いに、神戸へ。1http://jingumae.petit.cc/banana/2349250

Nに会いに、和歌山へ。2

暖かい青空が広がる中、鄙びた駅を降りると、辺りは遠く山々に囲まれていた。
山の中にある古いお寺に着いたら、静かに風が吹いて、鳥がさえずり、大きな木が豊かに枝を広げていて、なんとも言えない山のいい匂いがした。
「会いに来たよ。N。いいところをえらんだね。」
お墓に着いて、シャンパンを開けて、家から持って行ったグラスで乾杯をした。
Nの好きだったお弁当を広げ、僕もお弁当を食べながら、心ゆくまで話しをした。
お墓になんか、もうNはいないのかもしれない。でも、そんなことは僕にはどうでもよかったのだ。
自分でも、「どんだけドラマクイーンなんだろう…」と思うけど、もし僕がNより先に死んだら、きっとNも僕と同じことをしたと思う。
「そばにいられなくて、ごめんね」
「愛しているよ」
「ありがとう」
人は、死んでしまったら、いったいどこに行くのだろう?
本当のところはわからない。でも僕はまた、来世なのかどこかでNに会えると思うことが出来る。
帰り際、お寺を振り返ると、もう一度山のいい匂いがした。
胸いっぱいに吸い込んで、「また、会いに来るからね」とNに言った。
※Nの訃報が二丁目に流れたのと、この、個人的なこともなんでも書いちゃうブログにより、友人たちから様々なメールをいただいた。
「ハグしてあげたい」
「ユーミンの曲「夜空でつながっている」を聞いてみて」
「早く元気を出して」
「終わりじゃなくて、状況がほんの少し変わっただけだよ」
「これからは僕が姐さんを守ります」
夕飯や飲みの誘いなど、友人たちの温かい気遣いに励まされ続けている。
僕は、大丈夫です。時間がかかるかもしれないけど、少しずつ立ち直ります。
この場を借りて、もう一度大好きな友人たちに感謝の気持ちを伝えたいと思う。
ほんとうに、ありがとう!

Nに会いに、和歌山へ。1

「待っててね。N。いま会いに行くからね。」
今週は、何度もNに語りかけるように過ごしていた。
たった今、朝の便で関空へ着いたところ。これからバスで和歌山駅に、そしてそこから1時間以上かけて由良という町へ向かう。
実はNは、昨年の桜の咲く時期に亡くなっていた。
およそ1年も過ぎてそれを知らされたのは、もしかしたらNが僕のことを気遣ってのことなのかもしれない。
Nは、僕の性格を知り抜いていた。自分が弱って死んでゆく姿をもし僕に見せたら、僕が悲しみのあまり壊れてしまうだろうと思ったのかもしれない。
結婚をしていたNは、いつも僕に言っていた。「もしもの時には、お前だけは緊急治療室にでも入れるように、奥さんと姉とお母さんに言ってあるから…」
実際に、Nのお姉さんは二丁目にも来たことがあるし僕たちの全てを知っていた。お母さんにも何度も会っていたし、奥さんは、恐らく僕とNとの関係をわかっていたのだと思う。
今の僕にたった一つ心残りがあるとしたら、Nが痛みを感じている時、苦しい時に、ずっとそばにいて手を握りしめていたかったということだ。
どこか知らない遠くへ旅立つNに、いつだって僕がそばにいると言ってあげたかった。

渋谷区議会に、陳情へ。

『change.org』において、『渋谷区同性パートナー証明書』に賛成してくださり、誠にありがとうございました!(この細々とやっているブログからも何名もご署名していただき、とてもうれしかったです)
11,080名の方々のご署名とともに、『渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例案』に関する陳情書を提出に、渋谷区議会に妹のGについて一緒に行ってきました。
来週の25日26日に審議があり、3月31日に決議になる予定のようです。
このところ、神宮前ファミリーと友人たち総出で、新聞からテレビに出まくり、まるで僕までもLGBTアクティビストのように周りからは思われているようですが、僕がアクティビストなのではなく、たまたま周りがアクティビストばかりなのです。
様々な反対意見に耳を傾けつつも、でもどうしても今回の条例案が決議されることを願っています。
31日には、またみんなで渋谷区議会に行って、『Thank You, SHIBUYA!』のボードを挙げるつもりです!

いま手にしているものを、慈しむこと。

祖母の葬儀の時に、母が泣いていた。
その姿を見ながら、まだ学生だった僕も悲しかった。
そして、「お母さんは、なんであれほど泣いているんだろう…」と思っていたのを覚えている。
やがて僕も年を取り、7年前に父が亡くなった時に、昔、母があれほど泣いていた意味がはじめてわかった。
親を喪うということは、僕の想像を遥かに越える悲しみであり、痛みをともなう苦しみだったのだ。
そしていま、かつて自分の生命よりもたいせつに思っていたNを喪い、人生にはこれほど苦しいことがまだあったのか…と打ちのめされた。
人は生まれて、生きて、死んでゆくだけだ。
いま手にしているもの、いまそばにある人を、できるだけ慈しむことだけが、ただ僕たちに出来ることなのだろう。
自分の親であれ、恋人であれ、友人であれ、愛する人に、愛している気持ちを伝えよう。
いずれ愛する人が、その手を離れていってしまったとしても、愛していた、愛されていたという記憶は、温かいものとなって僕たちの中に残り、いつも励まし、支え続けてくれるだろう。

いまゐ

春の寄せ集め

お造り

竹の子とホタルイカ

東京にある割烹で、気軽に入れる店は珍しい。『いまゐ』は、新宿御苑前にあって手頃な値段でコース料理を楽しむことが出来る良店だ。
以前は新宿二丁目の御苑側の路地にあった小さな和食店だったが、ネットであっと言う間に評判になり、現在の少し大きな店に移転して値段も5000円から6500円に値上がりした。
白魚、ハマグリ、そら豆、ホタルイカ、竹の子…季節の食材をふんだんに取り入れた和食は、行く時によって驚きがある。
大将はまだ30代半ばくらいだろうか、寡黙だけど話すととてもやさしい人柄が伝わってくる。
京都の割烹料理屋は、世界一の和食文化を誇ると思うし、東京のどんな和食屋も全く太刀打ち出来ないと思うのだが、手頃な値段で東京で和食を楽しめる『いまゐ』は、とても貴重な店だと思う。
★いまゐhttp://tabelog.com/tokyo/A1304/A130402/13130365/

押入れの奥のダンボール箱。

寝室の押入れの奥には、大きなダンボール箱がそっと眠っている。
中には、僕が10年間つきあった前の恋人Nとの旅行や、ふたりで過ごした日々の膨大な写真のアルバムが詰まっている。
何度も行ったふたりの愛するイタリア各地の写真、スペインのお城を泊り歩いた写真、パリやニューヨークにも何度も行ったっけ。パリやバルセロナやフィレンツェで迎えた年明け、京都の割烹の写真、福岡の寿司屋さん、能登半島のドライブ…
7年前にNと別れてから、僕は何度もこのアルバムを処分しようか迷いながら、結局は押入れの奥にそっとしまったまま、中を覗き込むことはなかった。
昔よくNは、「俺が死ぬ時は、このアルバムを一緒に棺桶の中に入れてくれ。俺はそれで十分幸福だから…」と何度も僕に言っていた。
Nには奥さんがいて、Nはそれでも僕の家にほとんど寝泊まりしながら、僕に惨めな思いをさせないように、精一杯努力をし続けてくれていた。
N「お前にだけは、日陰者のような思いをさせたくないから。お前は、俺と結婚したんだから。この先も、ずっとずっと一緒だから…」
僕の母が入院した時は、手作りのお弁当を持って来てくれた。
風邪をひいて高熱で僕が会社を休むと、自分の仕事なんかほっぽらかして車で僕を迎えに来て、自分のかかりつけのお医者さんに連れて行ってくれた…。
太陽のようなあの笑顔を、もう二度と見れなくなる日がこんなに早く来るなんて、思っても見なかった。
やさしい顔に触れることも出来ず、大きな身体にハグしてもらうことも、もう叶わなくなってしまった。
僕の人生の中で、あんなに誰かに愛されて、あんなに完全にひとりの人を愛していた10年間はなかった。そしてそれは、Nも同じ気持ちでいてくれたと思う。
あまりにも勝手な言い方だけど、Nが目を閉じる時に、僕と過ごした幸福な時間を、どうか一瞬でも思い出していてくれていたらと願う。
ありがとう。N
またね。