ケイが、自分の子どもを持つということ。

もしも、ゲイである僕たちが、子どもを持つことが出来るとわかったら、あなたならどうするだろうか?
僕は、自分がゲイであることを自覚した時に、
「僕は、自分の兄や周りの友達とは違うのだ。奥さんや子どもに囲まれた、絵に描いたような幸福な家庭は築けないんだ…」
と、どこかで受け入れて生きてきた。それに、ゲイである僕にとっては、まずは恋人を作ることが先決だったのだ。
二丁目で繰り返し聞かれる言葉は、「あなた今、幸せなの?」「ところであんた、幸せなんだっけ?」なのだけど、これはゲイにとって、『幸せ=恋人がいる』ということを表していた。
ところが、ニューヨークで暮らす日本人の僕の友人は、パートナーと子どもを育てはじめたし、日本でもパートナーシップを認める区や地域が出てきた。同性婚こそまだ認められてはいないけれども、実は、本人たちの意志さえあれば、この国でセクシュアルマイノリティであっても、子どもを持つことは夢の話ではなくなって来たのだ。
友人たちが主催する『ゲイのための代理出産と卵子提供セミナー』というのがあり、声がかかったので行ってみた。
アメリカからチームが来日して、カリフォルニアで出来る代理出産の詳しい話を聞くことが出来た。チームの構成は、医師、代理母を探す会社、そして、すべての法律的な手続きを進めてくれる弁護士からなっていた。そして、それぞれの立場から、詳しい話が聞かされて、注意深くサポートをしてくれることがわかった。
特に驚いた点をいくつかここに挙げておこうと思う。
◎ゲイのカップルが、それぞれの遺伝子を受け継いだ双子が欲しいと思い、しかも、男の子と女の子が欲しいと願った場合、実現することは可能なのか?
→多めの卵子を摘出して、2つに分けて、それぞれの精子と結合させる。お金を抑えるために一人の代理母にそれを託し、男女がわかって来た時に、それぞれを選ぶことが出来るとのこと。
◎卵子を提供してもらい、代理母を探し、法的な手続きを済ませ、赤ちゃんが生まれるまでに、だいたい1年間だそうだ!
◎卵子提供、代理母探し、弁護士代などの法的な手続きなどのすべてひっくるめた値段は、12万ドルから15万ドルだというのだ。
正直、目の前で話されていることに実感がわかないというか、まるで映画の中に入ってしまったような不思議な時間だった。
もし、ゲイやビアンやトランスで、子どもを持ちたいと思っている方がいたら、その夢は、決して諦める必要はないと言いたい。
セクシュアルマイノリティであっても、周りのストレートの家族と同じく子どもを持つことは可能なのだ。
あとは、実現に向けて、自分がどうやって生きてゆくかなのだろう。
★【ゲイのための代理出産と卵子提供セミナー】https://www.facebook.com/events/192595281085138/

OUT IN JAPAN 東京撮影会

急遽撮影会が決まり、64人の撮影が行われた。これで累計630人を越えたことになる。
1年間で1000人のセクシュアルマイノリティの撮影を目標に掲げて来たことから、あと3回の撮影で1000人に届くかもしれない。
毎回撮影で楽しいことは、様々な人との出会いがえることだろう。
撮影中、立って飲み物を飲んでいると、ひとりの若いFtMのHが話しかけてきた。
H「あのー、スタッフの方ですか?
僕は今日、四国の高松から来たんです。
高松ではLGBTとかは埋没していて、高松でセクシュアルマイノリティとして生きることを、みんな諦めちゃってるんです。
だから、高松では生きられなくなってどんどん東京に出てしまって、僕も東京行こうかずっと迷っていたんですけど、高松で生きることに決めたんです」
僕「田舎では、なかなかゲイでもカミングアウト出来ないし、結婚して自分のセクシュアリティを隠しながら生きる人も多いんだよね…
高松には、ゲイバーはあるんでしょう?」
H「ミックスみたいなバーですが、あまり賑わってなくて、やっぱりみんな東京に行きたがるんです。
でも僕は、高松でしか出来ないこともあるんじゃないかと思うんです。
自分の育った町から逃げないで、高松で次の世代に勇気を与えたいんです」
そんな話を聞きながら、なんとも熱い子だなぁ…と感心した。
OUT IN JAPANのこの日の撮影のために、特攻隊のように東京に日帰りで来てくれたのだ。
その後、アクティビストであり僕の弟のようなFに会いたいというのでFに急遽連絡を取り、ふたりは会うことが出来たようだ。
夜になったらHからFacebookの申請があり、Fと一緒に元気に笑うHの写真がアップされた。
今の純粋な気持ちのまま高松で、どうか周りを照らし続けてほしい。

KYUSYU RAINBOW PRIDE

今年で2回目になるという福岡でのパレードに参加した。はじめ、定員が300名と聞いていたのだけど、思ったより人が多く、その倍はいたのではないだろうか。
中でも目立っていたのは、ヒルトンが団体でヒルトンTシャツを着て歩いていたり、AIGが綺麗な水色の旗を持って集団で歩いていたこと。
企業がこうしてパレードに参加することは、とてもLGBTフレンドリーな企業に見えるので、広告などを打つ以上に好感度は上がるのではないだろうか。
冷泉公園の会場には人が数千人くらいは集まっただろうか?会場は手作り感が溢れ、温かい雰囲気に包まれていた。
冷泉公園から明治通りを抜けて、渡辺通りの手前の大丸で道を左折、キャナルのそばまで行って、かろのうろんの手前から左折、商店街を通って中洲川端まで戻るコースは、大阪などと違って町の目抜き通りだし、バスに乗る人や通行人も沢山見ていた。
パレードの課題は、東京でも大阪でもここでも同じだと思うのだけど、一体なんのために歩いている団体なのかが伝わっていないために、どう伝えていくかということ。
同じ日にほぼ同じコースで、福岡では野球の優勝パレードがあったようで、通行人は野球のパレードだと思っている人も沢山いたように思う。
商店街ではおばあさんやおじいさんも、一体なんの人たちなんだろう…と不思議そうに見ていたりしたのだけれども、第2回とはいえ、本当に気持ちのいいパレードだった。
KI-YOのステージも感動的で、OUT IN JAPAN のテーマ曲でもある WE ARE ONE をみんなで大合唱したのでした。

OUT IN JAPAN #005 in FUKUOKA 撮影会

朝日新聞の夕刊にも載りました。

OUT IN JAPANの撮影会が福岡で行われ、総勢99人のセクシュアルマイノリティの参加があった。
朝の8時からスタジオ入りして、撮影会が終わったのは、夜の10時半。
ほとんど立ちっぱなしでサンドイッチやおむすびをつまみながらの作業は、終わる頃には足が棒のようになり、ヘトヘトに疲れきってしまうのだけど、参加者の方々と色々な話をさせていただく中で、僕たちが勇気をもらっているようなところがある。
およそ1ヶ月前に僕は一度福岡に来ていて、『七男鳥』、『compact』、『safari』を周り、パンフレットを置かせていただいたのだった。
そして、昨夜も『七男鳥』で飲みながら、近くの人に参加しませんかと何人もの人に声をかけたのだけど、やはり福岡の土地柄か、カミングアウトを目的としたプロジェクトには二つ返事でOKしてくれる人はいなく、本番はどうなるのかと思っていたのだ。
しかし、前半こそFtMなどが多かったものの、午後の早い時間には、『七男鳥』のマスターも駆けつけてくださり、緊張しながらもカッコイイ写真を撮影することが出来たし、後半は『compact』周りのゲイの人たちもどんどん増えて来て、僕の心配も杞憂に終わったことがわかりほっとした。
今回、一番驚いたのは、二組の家族だった。
1つは、8歳のFtMの子がいたこと。彼は女性の身体で生まれて来たけど、幼い頃から自分のことを男だと思っていたようで、お母さんもそれを受け入れて、今回の撮影に参加してくれたのだ。
彼のような子が出てくることによって、一般的な知識も高まるだろうし、実際に当事者を抱えるご家庭も、「うちの子だけではないんだ」と思えるに違いない。
子どもはとてもわんぱくで、撮影の間中はしゃぎ回り、みんなに愛されていた。
そしてもう1つは、MtFの人と、その娘さんが参加してくださったことだった。これはどういうことかというと、もともと男性として女性と結婚して、子どもをもうけた父親が、その後、自分は女性だという認識を示し、女性として生きることを選び、家族にもそれを話し、了承を得たということだ。
12歳くらいの娘さんが一緒に来ていて、今となってはお母さんになってしまった親御さんの撮影を、必死にカメラで撮影していた姿がとても印象的だったのだ。
これはまるで、『トランスアメリカ』という映画のようで、僕自身そんなことが現実的にあるのだと知って驚きを持ってふたりを見ていたのだけど、たとえセクシュアリティが途中で変わったとしても、親子の愛にはなんの変わりはないということを、まざまざと見せつけられたのだった。
LOVE IS LOVE

Hとお母さん。

Hは、僕のすぐ近所に住む39歳くらいのゲイ。なんというか、典型的なSO GAYだ。(笑)
ほんの数年前に鹿児島のご両親にカミングアウトをしたのだけど、ご両親にはまったく受け入れられず、まるで何もなかったかのようにその話題にはお母さんも触れなくなっていた。
それが、久しぶりにお母さんが、鹿児島から東京のHの家を訪ねてくることになったという情報が、神宮前二丁目ファミリーの中で駆け巡ったのだ。
「日曜日の夕方、『irodori』におかんと行きます」
 
そんな情報を聞いて、僕も紀伊国屋で買い物を済ませ『irodori』に向かうと、お母さんとHと、なんとHの恋人のKeまでいるではないか!これはいきなり、自分の恋人まで一気にお母さんに紹介するようだ。そこへ、Hの弟さんとフィアンセも加わり、なんだかなんでもありのような大所帯になった。
お店に入るなり、お母さんにご挨拶をした。
お母さん「あらあ、Hがいつもお世話になっております」
僕「いやいや、僕の方こそ、いつもHちゃんにお世話になってるんです」
僕の後に、神二のファミリーが続々と駆けつけた。ゲイ、ビアン、オナベ、ノンケ・・・なにもかも入り乱れて、お母さんにはもうセクシュアリティなんてよくわからないんじゃないかというくらいに。
帰り際、みんなで集合写真を撮って、お母さんは安心しているのがわかった。こんなにたくさんの友達に囲まれているなんて・・・と思ったみたいだった。そして、ふいにお母さんの口から、「LGBT]という言葉が出た。
僕「お母さん、LGBTなんて言葉ご存知なんですか?」
お母さん「知ってますよ。あれから私も随分勉強したんです・・・」
Hには言わなかったのかもしれないけど、お母さんはお母さんで、Hのカミングアウトを受け止め、自分の中でゆっくりと理解しようとしていたのだった。
温かい仲間たちに囲まれて大きく笑うHを見て、僕もとても幸福だった。別れ際、お母さんは何度も僕たちに頭を下げていた。

ストレートをアライへ。

今回のOUT IN JAPANの撮影風景が、夕方にNHKの首都圏ネットワークで放映された。そんな縁があって、記者さんふたりと数軒飲み屋をはしごした。
彼らはストレート。そして、今年になって世の中が騒ぎ出したLGBTの話題をネタとして取り上げようとしている人たち。
彼らと話していると、LGBTに対する垣根や偏見があまりないことに気づいた。どうしてなんだろう?と聞いてみると、ふたりとも海外で学校にいたことがあって、そこでは普通にゲイがいて、寮では同室だったりしたのだそうだ。
でも、たとえば、セクシュアルマイノリティが幼い時からどんな風に生きづらさを抱えて生きてきたかとか、いじめがあったり、精神的に弱ったり、自傷行為や自殺をする人の割合がとても多いということや、ホモフォビアによるヘイトクライムが未だに世界で蔓延り続けているといった話は、彼らはほとんど知らなくて、驚いてばかりいた。
この国でも、ようやくセクシュアルマイノリティの置かれている環境が変化を迎えはじめていて、ところどころで今まで気づかなかった問題も浮かびはじめている。
そうした中でも、僕たちセクシュアルマイノリティのうちわだけではなく、こうやってストレートの人たちと接触して、僕たちのことを出来るだけ正確に理解してもらうように働きかけることがとてもたいせつな気がするのだ。
身の回りのストレートたちに、セクシュアルマイノリティのことをきちんと話し、理解してもらい、少しずつでも周りにアライが増えてゆくことで、この国もゆっくりと動いてゆくかもしれない。

OUT IN JAPAN #004 in TOKYO

渋谷で、第4回目のOUT IN JAPANの撮影が行われ、総勢121名のセクシュアルマイノリティの方々が参加してくださった。
スタッフは、朝の7時から夜の11時まで、ぶっ通しでボランティアで関わり、途中何度も気が遠くなるような疲れや眠気に襲われながらも、なんとか全員撮影を終えることが出来た。
撮影前にほんの少しずつそれぞれの人とお話ししながら、こんな境遇の人もいるのか…こんなトランスジェンダーの人もいるのか…と感心することがたくさんある。
今回、とても綺麗な23歳の女の子がいて、なんというか、ちょっと女優みたいな透明感のある子なのだけど、プリントアウトにはFTMと書いてあって、最初、何かの間違いかと思ってセクシュアリティをもう一度聞き直した。
すると、やはりFTMで、「まだ勇気がなくてカミングアウト出来ていないけど、これを機に周りにカミングアウトするつもりです。」と言うのだった。
そして、「私もあんな風になりたいんです」と彼女の次の人を指差すと、そこにはどこからどう見ても30代の毛むくじゃらの男にしか見えない、大胸筋の盛り上がった日に焼けたFTMがいたのだった。
23歳の彼女の場合、もの心着いた時から自分が男だと感じていたのだけど、身体の性である女性の方として長い間生きてきたのだ。それが今になってやっと男になれるのだと、顔を赤らめて興奮していたのだった。
彼女にとって、今回のOUT IN JAPANがちょっとした勇気を出す機会になったのかと思うと、僕たちもとてもうれしかった。
まだまだこれからが、彼女というか、彼にとっての正念場なのだろうけど、高揚して輝く顔を見ていると、きっとあと3年もすれば、見違えるようなかっこいい男になるのだろうと思えるのだった。
★OUT IN JAPAN #003 in OSAKAの写真とプロフィールが公開されました。http://outinjapan.com

渋谷区で、『同性パートナーシップ証明書』発行。

念願の『同性パートナーシップ証明書』が発行され、友人であるK&Hカップルが、晴れて第一号となった。
ハチ公は虹色のタスキをかけ、テレビでもネットでも沢山のニュースに取り上げられたようだ。
夜になり、神宮前二丁目ファミリーがイロドリの2階に、K&Hカップルの証明書を仲間同士で祝うために集まった。
そこには、Hのお父さんとお母さんもお見えになり、みんなと一緒に感動を味わった。
証明書を実際に見てみると、なんとも感慨深いものがある。区が認めた紙切れとはいえ、きちんと書かれたふたりの名前と、そのふたりの関係を認めると書かれた文字を見ていると、日本もここまで来たのだなあと思ったのだ。
こんな紙切れ、なんの法的な効力もない。そういう人もいるのは知っている。
でもどうだろう?
この渋谷区や世田谷区のことが日本中で話題になり、携帯会社や保険会社など民間企業にも次々と変化が見え始めた。
ライフネット生命保険が真っ先に名乗りを挙げて、第一生命、日本生命までもがこの証明書を生かしてくれると言い出したのだ。
どんな国の変化も、最初は小さなところからだったに違いない。この国に同性パートナーの権利が平等に認められていくためには、これからまた、みんながそれぞれ、自分たちに出来ることをコツコツと積み重ねていくしか道はないのだろう。
ふたりの幸せそうな顔を見ながら、それをともに喜び祝える仲間たちと美味しい祝杯を挙げた。

渋同性パートナーシップ証明書。

いよいよ渋谷区における『同性パートナーシップ証明書の申請がはじまった。発行は11月5日になっている。
証明書を取得するためには、司法書士による公正証書の提出が求められる。
これは、だいたい13000円から18000円くらいかかることになる。(枚数により金額が異なるため)
これを聞いて、男女の結婚ならば、そんなもの要らないし、お金もこれほどかからないのに、不平等ではないか!という意見も聞いている。
そもそもこの証明書、いったい我々にとって必要なものなのか?という声もたびたび耳にして来た。
この証明書があるからといって、遺産の相続も出来ない。不動産を共有することも出来ない。保険も後見人にすることも出来ない。私にとってはまったく不平等なこんな証明書、全然興味ないという思いもあるだろう。
なぜならば区の証明書には、法的な効力はないものだからだ。
でも僕は、この証明書を取得する意義はあると思っている。
アメリカ全州で同性婚が認められたのは、今年の6月。
そこにいきつくまでに、ハーヴェイ・ミルクをはじめ本当に多くの人々の地道な努力があったのだと思う。
デンマークにおいて、『同性カップルのパートナー制度』が認められたのが、1989年。オランダにおいて『同性婚』が認められたのは、2001年。そこにいきつくまでに、それぞれの国で、少しずつ少しずつ社会に変化を起こし、前に進んでは下がりを何度も何度も繰り返してきた結果なのだろう。
僕は、渋谷区の条例をとてもうれしい気持ちで受け止めている。
本当の踏ん張り時は、これからであることもわかっている。
これを機に、みんながそれぞれ何か動き出すこと。
たとえば自分の会社で何か出来ないか声を上げてみる。
たとえば身近な企業(保険、携帯会社、旅行会社など)に相談を持ちかけてみたり、みんなが少しずつ動き出すことで社会でもセクシュアルマイノリティはもっともっと可視化されてゆくに違いない。
いつか、「同性で結婚出来ない時代なんかあったんだねえ・・・」と、言われるような時代が来る日を、僕はずっと夢見ている。

台湾プライドに向けて。

一週間後の土曜日は、アジア最大の台湾プライドの日。
ここ毎年6年くらいは続けてこの時期に台湾を訪れていたのだけど、今年は東京で過ごしているような気がしている…
(というのも、今でもまだ、行きたいなぁ、行けないよなぁ、という思いが波のように交互に押し寄せているのです)
これもここ3年くらいやらせていただいていることなのだけど、東京からいく東京レインボープライドの仲間たちや、現地の台湾人の人たちが笑顔でパレードの時に着てくれるようにと、日台友好のシンボルとしてTシャツをデザインさせていただいている。
散々迷った挙句デザインを決めて、時間がなかったので慌てて入稿したのだけど、夜中になんだか眠れずに、何度も何度もデザインを眺めては、何かが自分としてもしっくり来なくて、そのまま眠れずに朝になり、早朝会社でデザイナーと新しいデザインのデータを作り直し、入稿をし直した。
台湾の人たちがこのTシャツを見た時に、ハッと何かに気づくその姿を見たいと思う。
本当は台北に行って、このTシャツを着て、日本の仲間たちや、台湾の人々とみんなで一緒になって歩きたいのだ。
Happy Pride!