東京高裁で第二回目の期日が行われた。
裁判所に入廷する時に、よく知った友人の顔が見えて思わず胸が熱くなった。
今回は、西川さんと僕が意見陳述をし、三人の弁護士も陳述した。裁判の今後の予定は、24年4月26日に結審。9月か10月に判決の予定。
以下は、僕の意見陳述全文です。
原告のただしこと、廣橋 正です。東京都出身54歳です。
16歳年下で大分県出身のかつと一緒に、現在は沖縄県の宮古島で「AZZURRA」という小さな宿をしながら2頭の犬や猫と一緒に暮らしています。
昨年11月の東京地裁判決の中に、「同性のパートナーと家族になるための法制度については、婚姻制度に同性間の婚姻も含める制度とするのか、婚姻に類する制度とするのか、国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々(しゅじゅ)の要因を踏まえつつ、
また、子の福祉等にも配慮した上で立法裁量に委ねられている」とありました。
この判決文要旨は、僕たちのような性的指向の人たちを、自分たちよりも劣った存在であると疑いもなく当たり前のように思っている差別意識を感じました。
僕たちはただ、愛する人と結婚したい。家族になりたいと言っているだけなのに、「結婚に類する制度」という言葉はどうして出てきたのでしょうか?
今日はここで「結婚に類する制度」を一緒に想像してみてください。
例えば僕は二人兄弟ですが、兄は女性と結婚して子どもを持ち、家族になることができました。僕はもうすぐ55歳になりますが、パートナーのかつとようやく「準結婚」が出来るように なるとします。
僕とかつは、家族や友人、会社の先輩後輩を「準結婚式」に招待します。来場者は「準結婚おめでとう!」と言ってお祝いしてくれるのでしょう。「準家族になれたね!」と言って喜んでくれるのでしょう。
「準結婚式」には子どもを育てている同性カップルの友人たちも来てくれるでしょう。
そ の人たちは周りの人たちから言われるでしょう。「あ、あそこのお子さんがいる人たちも準結婚した準家族なんだね!」と。
子どもたちは学校でも友達から言われるかもしれません。「お前のとこは家族じゃなくて準家族だもんな・・・俺たち家族とは違うもんな」
僕はそんな未来など来て欲しくはありません。
もしも裁判官のお子さんが「自分の好きな人は同性で、その人と結婚したい」と言ったとしたらどう答えますか?「私たちは結婚できたけどあなたは結婚は出来ないの。でも準結婚ならば出来るわよ」と答えるのでしょうか?
結婚できる人と、結婚に類する制度しか許されない人との差異はいったいなんなのでしょうか?そうしなければならない理由があれば論理的に説明して欲しいです。
本人の意志でコントロールすることのできない「性的指向」や「性自認」によって、人を権利のある人と権利のない人、1級と2級に分離するのでしょうか?その昔アメリカが、白人と黒人を分離して、バスの座る場所やトイレを別々にしていた時代がありました。それと同じことをするのでしょうか。
判決文の中でもう一つどうしても理解できなかったのは、「国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々(しゅじゅ)の要因を踏まえつつ・・・」というところです。
この国では現在、自分の好きな人と自由に結婚ができて、1500以上もあると言われる社 会保障に守られながら安心して暮らしていける人が多数存在します。しかしながらその反面、僕たちのように、自分の愛する人と結婚できない、家族になることができない、パートナーの子どもを家族として認められない、パートナーと一緒に人生を歩んでいく中で、 国にいっさい守られない人たちは恐らく1割くらい存在しているのです。
人が自らの意思で好きな人と結婚したいという権利を、なぜ国の伝統や国民感情の物差しで測る必要があるのでしょうか?僕たちは結婚できる人たちの奴隷なのでしょうか?
人が、自分の好きな人と結婚したいという権利は、誰もが生まれながらに等しく持っているはずの権利「人権」です。
僕は物心ついた時から自分が同性に惹かれることをわかっていました。でもそれは両親や兄弟、友人たちには絶対に言えずにひた隠しにしながら生きてきました。両親から愛されなくなることが怖かったのと、いじめや差別を極度に恐れていたのです。
大人になっても、自分は兄のようには結婚できないことがわかっていたので、自分は一生一人で生きていくしか道はないと思っていました。また、心のどこかで常に、自分のことを、他の人よりも劣った人間の出来損ないのように感じながら生きてきました。
兄の結婚式や会社の同僚や後輩の結婚式に行くたびに、身近な人の幸せを喜ぶ気持ちはあるものの、こうして家族や友人や先輩後輩、自分の周りの人々から祝ってもらえる結婚式など自分の人生にはあらかじめないことを思い、誰にも言えない虚しい気持ちをいつも味わってきました。
自分が母に性的指向をカミングアウトしたのは、50歳になってからでした。長い間母に言 うことができなかったのは、自分がゲイであることを告げることによって、母に「かわいそうな子」「この子は兄や他の子と違って人より劣った子なんだ」と思われてしまうことを小さな頃からずっと40年以上恐れ続けていたからです。
2022年の日本のLGBTQ +10代若者の調査では、およそ半分である48%が自殺に思いめぐらせたことがあると回答し、14%が過去1年間に自殺未遂をしたと回答しています。
「自分の性的指向を誰にも言えずに、自分は将来ずっと一人ぼっちで生きていくしかないんだ。自分は人間の出来損ないなんだ。自分なんて、生まれてこなければよかったんだ」というような、僕が長年抱えながら生きて来た悲しい思いを、これからの若者には誰一人抱かせたくはありません。
ここ数年でLGBTQ+に関する自治体の努力や企業の理解増進は進み、パートナーシップ 制度を持つ自治体は増え続け、国の人口カバー率は7割を超えてきました。同性パートナーを家族のように認める企業が年々増え続けています。
しかしながら、結婚できる人と、準結婚しか出来ない人がいるという差別意識が当たり前にはびこっている状況では、LGBTQ+に対するいじめや差別はいつまでもなくなりません。法律が僕たちを平等に扱わない限り、社会は変わらないのです。
亡くなったアメリカのルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事は、「どんな人間として人々の記憶に残りたいか」という質問に対してこう答えています。
「自分が持つあらゆる能力を駆使して社会のほころびを修復し、物事を少しでも良くするために役立った人として。自分以外の人のために何かをした人物として人々の記憶に残りたい。」
東京地裁の判決文には、酷い差別意識を感じましたが、日本にも、RBGのような裁判官がいることを信じたいです。
僕たちは特別な権利を求めているわけではありません。
この国で生きるすべての人たちが、
「いつか自分に好きな人ができたら・・・
自分の愛する人と結婚したい。
子どもを育てて、家族一緒に幸せに暮らしたい・・・」
そんな当たり前の夢を、性的指向や性自認に関わらず、誰もが自由に思い描くことのできる社会になることを、僕は心から願っています。