ニューヨークからの友人カップル

今月末にニューヨークから友人カップルが宮古島に来島することになっていて、時々その手配をするためにメールのやりとりをしている。

友人カップルは20年以上日本に滞在した後、東日本大震災のほんの少し前にニューヨークに帰国したのだった。

彼らは友人だけれども、81歳と75歳のゲイカップルで、4年前くらいにアメリカに僕とKが遊びに行った時にニューヨーク郊外のお宅に泊まらせてもらった。

僕と知り合ったのはかれこれ30年近く前になるのだけど、新宿2丁目にある「ぺんぺん草」というお店にきている友人の家のパーティーだったと思う。

それ以来、彼らがNYにいるときは遊びに行ったり、東京で誰かの家でのパーティーで顔を合わせたりしていた。

僕たちはNYで泊めてもらったこともあり、今回、当然ながら宿のお金は彼らからいただかないつもりでいたのだ。

でもそんな僕たちの思惑はすっかり見透かされていて、「このカードが使えるかどうかわからないから宿の代金をこのカーでで試してもらえないか?」などと言ってカード番号を送ってきた。

僕たちが無料で彼らを迎え入れようとしても、彼らにとってそれは心地のいいことではないのだろうと思い、カード決済をすることにした。

ほんの3泊の滞在だけど、楽しい旅行になるお手伝いができればと今から心待ちにしている。

僕が先に死んでしまったら。

先日なんとなく僕が先に死んだらどうするか・・・などの話になった。

それは悲しい話としてではなく、前向きな未来の話。

16歳年上の僕がほぼ間違いなく先に死ぬ日が来るのだろうけど、その後火葬をするとして、遺灰はどうしようか・・・と。

千葉には母のお墓があるけど、僕自身には入るお墓もないし、お墓に入りたいとも思っていない。

「あの岬に遺灰を撒いてよ。あの、海と空とKと一緒に毎日散歩した岬に」

何も悩むことなく、美しい岬が浮かんだのだ。

Kは僕の顔を見て、僕の言っている意味を完全に理解しているのがわかった。

毎日の散歩に訪れている海に帰って行けるなんてこれ以上の幸せはないではないか。

久しぶりの友人のSNS。

インスタを見ていたら、友人がとても久しぶりに上げていた。

それを見てKに声をかける。「KTくんとパートナーがインスタ上げてる!」

二人は今年の夏に宮古島への旅行を計画していてくれたのだけど、パートナーの人が病気か事故で手術をすることになってしまい、やむなく直前で旅行をキャンセルしたのだった。

キャンセルの連絡があまりにも直前だったことから、その日程はずっと空き部屋になってしまったのだけど、早くよくなって遊びにきてくださいと返信しておいたのだ。

あれから4ヶ月過ぎただろうか。よくよく文章をみるとその後にももう一度大きな手術をされたようで、それを知って差ぞ大変な思いをしたに違いないと思いメッセージを書いた。

今はだいぶ良くなったようで、二人で海に遊びに行っている写真が載っていたのだけど、家族と認定されていないパートナーの急な手術に、たくさんの不都合があったことが書かれていた。

いつか二人がもっと元気になって、宮古島に遊びにきてくれる日を楽しみに待っていよう。

君がつらいと僕もつらい。

Kはとてもやさしいから、僕が大変な状況だったり辛そうだとすぐにわかるようだ。

kは僕と違ってとても几帳面でしっかりしているから、色々なことに気を使いすぎてしまって疲れ切ってしまうことがある。

それもこれも全部僕のせいなのだけど、疲れて弱りきったKを見ていたら僕の胸が酷く傷んだ。

自分が疲れたり、傷ついたりするのはいくらでも耐えられるが、Kが弱っていると見ていられない。

不甲斐ない年上で申し訳ないけど、なんとか僕が頑張ってKに負担をかけないようにしないとと心に誓ったのだった。

「結婚の自由をすべての人に」訴訟 東京高裁第2回期日

東京高裁で第二回目の期日が行われた。

裁判所に入廷する時に、よく知った友人の顔が見えて思わず胸が熱くなった。

今回は、西川さんと僕が意見陳述をし、三人の弁護士も陳述した。裁判の今後の予定は、24年4月26日に結審。9月か10月に判決の予定。

以下は、僕の意見陳述全文です。

原告のただしこと、廣橋 正です。東京都出身54歳です。

16歳年下で大分県出身のかつと一緒に、現在は沖縄県の宮古島で「AZZURRA」という小さな宿をしながら2頭の犬や猫と一緒に暮らしています。

昨年11月の東京地裁判決の中に、「同性のパートナーと家族になるための法制度については、婚姻制度に同性間の婚姻も含める制度とするのか、婚姻に類する制度とするのか、国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々(しゅじゅ)の要因を踏まえつつ、
また、子の福祉等にも配慮した上で立法裁量に委ねられている」とありました。

この判決文要旨は、僕たちのような性的指向の人たちを、自分たちよりも劣った存在であると疑いもなく当たり前のように思っている差別意識を感じました。

僕たちはただ、愛する人と結婚したい。家族になりたいと言っているだけなのに、「結婚に類する制度」という言葉はどうして出てきたのでしょうか?

今日はここで「結婚に類する制度」を一緒に想像してみてください。

例えば僕は二人兄弟ですが、兄は女性と結婚して子どもを持ち、家族になることができました。僕はもうすぐ55歳になりますが、パートナーのかつとようやく「準結婚」が出来るように なるとします。

僕とかつは、家族や友人、会社の先輩後輩を「準結婚式」に招待します。来場者は「準結婚おめでとう!」と言ってお祝いしてくれるのでしょう。「準家族になれたね!」と言って喜んでくれるのでしょう。

「準結婚式」には子どもを育てている同性カップルの友人たちも来てくれるでしょう。
そ の人たちは周りの人たちから言われるでしょう。「あ、あそこのお子さんがいる人たちも準結婚した準家族なんだね!」と。

子どもたちは学校でも友達から言われるかもしれません。「お前のとこは家族じゃなくて準家族だもんな・・・俺たち家族とは違うもんな」

僕はそんな未来など来て欲しくはありません。

もしも裁判官のお子さんが「自分の好きな人は同性で、その人と結婚したい」と言ったとしたらどう答えますか?「私たちは結婚できたけどあなたは結婚は出来ないの。でも準結婚ならば出来るわよ」と答えるのでしょうか?

結婚できる人と、結婚に類する制度しか許されない人との差異はいったいなんなのでしょうか?そうしなければならない理由があれば論理的に説明して欲しいです。

本人の意志でコントロールすることのできない「性的指向」や「性自認」によって、人を権利のある人と権利のない人、1級と2級に分離するのでしょうか?その昔アメリカが、白人と黒人を分離して、バスの座る場所やトイレを別々にしていた時代がありました。それと同じことをするのでしょうか。

判決文の中でもう一つどうしても理解できなかったのは、「国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々(しゅじゅ)の要因を踏まえつつ・・・」というところです。

この国では現在、自分の好きな人と自由に結婚ができて、1500以上もあると言われる社 会保障に守られながら安心して暮らしていける人が多数存在します。しかしながらその反面、僕たちのように、自分の愛する人と結婚できない、家族になることができない、パートナーの子どもを家族として認められない、パートナーと一緒に人生を歩んでいく中で、 国にいっさい守られない人たちは恐らく1割くらい存在しているのです。

人が自らの意思で好きな人と結婚したいという権利を、なぜ国の伝統や国民感情の物差しで測る必要があるのでしょうか?僕たちは結婚できる人たちの奴隷なのでしょうか?

人が、自分の好きな人と結婚したいという権利は、誰もが生まれながらに等しく持っているはずの権利「人権」です。

僕は物心ついた時から自分が同性に惹かれることをわかっていました。でもそれは両親や兄弟、友人たちには絶対に言えずにひた隠しにしながら生きてきました。両親から愛されなくなることが怖かったのと、いじめや差別を極度に恐れていたのです。

大人になっても、自分は兄のようには結婚できないことがわかっていたので、自分は一生一人で生きていくしか道はないと思っていました。また、心のどこかで常に、自分のことを、他の人よりも劣った人間の出来損ないのように感じながら生きてきました。

兄の結婚式や会社の同僚や後輩の結婚式に行くたびに、身近な人の幸せを喜ぶ気持ちはあるものの、こうして家族や友人や先輩後輩、自分の周りの人々から祝ってもらえる結婚式など自分の人生にはあらかじめないことを思い、誰にも言えない虚しい気持ちをいつも味わってきました。

自分が母に性的指向をカミングアウトしたのは、50歳になってからでした。長い間母に言 うことができなかったのは、自分がゲイであることを告げることによって、母に「かわいそうな子」「この子は兄や他の子と違って人より劣った子なんだ」と思われてしまうことを小さな頃からずっと40年以上恐れ続けていたからです。

2022年の日本のLGBTQ +10代若者の調査では、およそ半分である48%が自殺に思いめぐらせたことがあると回答し、14%が過去1年間に自殺未遂をしたと回答しています。

「自分の性的指向を誰にも言えずに、自分は将来ずっと一人ぼっちで生きていくしかないんだ。自分は人間の出来損ないなんだ。自分なんて、生まれてこなければよかったんだ」というような、僕が長年抱えながら生きて来た悲しい思いを、これからの若者には誰一人抱かせたくはありません。

ここ数年でLGBTQ+に関する自治体の努力や企業の理解増進は進み、パートナーシップ 制度を持つ自治体は増え続け、国の人口カバー率は7割を超えてきました。同性パートナーを家族のように認める企業が年々増え続けています。

しかしながら、結婚できる人と、準結婚しか出来ない人がいるという差別意識が当たり前にはびこっている状況では、LGBTQ+に対するいじめや差別はいつまでもなくなりません。法律が僕たちを平等に扱わない限り、社会は変わらないのです。

亡くなったアメリカのルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事は、「どんな人間として人々の記憶に残りたいか」という質問に対してこう答えています。

「自分が持つあらゆる能力を駆使して社会のほころびを修復し、物事を少しでも良くするために役立った人として。自分以外の人のために何かをした人物として人々の記憶に残りたい。」
東京地裁の判決文には、酷い差別意識を感じましたが、日本にも、RBGのような裁判官がいることを信じたいです。

僕たちは特別な権利を求めているわけではありません。
この国で生きるすべての人たちが、

「いつか自分に好きな人ができたら・・・
 自分の愛する人と結婚したい。
子どもを育てて、家族一緒に幸せに暮らしたい・・・」

そんな当たり前の夢を、性的指向や性自認に関わらず、誰もが自由に思い描くことのできる社会になることを、僕は心から願っています。

11周年、ありがとう。

Kと僕が付き合いはじめてから、今日で11年が経ったようだ。

ようだ・・・というのは、僕がすっかり忘れてしまっていたから。

昔はプレゼントを買ったりしていたのに、今はそんなこともしなくなってしまった。

でも一つだけ言えることは、11年前よりももっとずっとKのことを愛しているということ。

11年の月日が僕たちの絆を強くしてくれたと思う。

たくさんの出来事があったけど、僕の人生の中でこれほど幸福な11年間はなかったと思う。

K、11年間、ほんとうにありがとう。

これからもよろしくね。

意見陳述、どうしようか・・・。

僕たちが戦っている「結婚の自由をすべての人に」訴訟、東京高裁において、意見陳述を10月31日にすることになった。

今まで裁判所で意見陳述は3回してきたけど、今回は一体何を話せばいいのだろう?

今までは、僕とKの暮らしのことや、どんな不平等があるのかという話が中心だった。

でも高裁ともなれば、僕たちの意見陳述によって裁判官の気持ちが動くというよりも、論理性が求められるような気がしている。

色々考えた挙句、地裁判決に関する疑問をぶつけてみようかと思ったのだ。

高裁の裁判官はとても頭のいい人で話も聞いてくれそうだったので、まずは率直な疑問や不思議に思う判決文について聞いてみることにしよう。

10月31日東京高裁第2回期日に向けて。

僕たちが4年半以上かけて闘っている裁判「結婚の自由をすべての人に」訴訟、東京高裁2回目の期日が迫ってきた。

前回は、おのはるさんと小川さんが意見陳述をし、今回は僕と西川さんが意見陳述をする予定。

まさか自分の人生の中で、高裁で意見陳述をする日が来るなんて考えもしなかった。

原稿は今のところ12分くらいになってしまっているので、これを今から修正して7分半くらいにしなくてはならない。

今回の高裁に向けて、オンラインイベントがYouTube配信される予定で、僕も登壇する予定なのでぜひ見てください。

Kのやさしさ。

Kは心根のやさしい人だ。

僕が選んだだけある・・・。

空が来て10日以上すぎただろうか。

新しく子犬を迎えた時には、当分の間はなるべくケージ(囲いや檻)の中に入れておいて、時々外に出して遊んであげるくらいにしないといけないというのが、今の子犬の育て方と言われている。

子犬は一日の内20時間くらい眠るので、時々出しておしっこをさせて遊んであげて、10分くらいでまたケージに戻すということを繰り返しながら、おしっこのする場所を学ばせていく。

かわいいからと言って、はじめから外にばかり出して遊んでいると、してはいけないことを覚えることや自制心を育むこと、我慢することができなくなってしまう。

夜は空だけケージに入れて寝かせるのだけど、空はケージに入れた直後はギャンギャン鳴いて外に出してくれと叫ぶ。

それでもシカトをしていると、いずれ泣き止み、ふて寝をするようになる。

僕はそんな空を放っておいてベッドで寝てしまうのだけど、Kは空が寂しいだろうと思うのか、自分だけケージの横の畳の上にクッションとリネンを持ち出して寝るのだ。

見ていると、時々空を安心させようとして撫でたりしている。夜中には急に空が起き出して泣き叫ぶことがあるのだけど、そんな時もすぐにKが起きて空を外に出しておしっこやうんちをするのを見守って片付ける。

僕は寝ぼけてそれを遠くから見ている・・・。

そんなKを見ていると、本当にやさしい人だと思うのだ。

Sカップルの来島

友人のSカップルがやって来た。

ゆっくりと会うのは本当に何年振りだろう?と言うくらい久しぶりで、夜ご飯を彼らの友人カップルと一緒にさせてもらった。

お店は「あったかや」。宮古島の下地にあって、前々からお店のことは聞いていたけど家庭的でとても美味しいお店だった。

僕がうれしかったのは、Sカップルがわざわざうちに宿泊してくれたこと。

最初泊まりたいと言う知らせが来た時は耳を疑ったというか、え???

いつもの高級ホテルにしたほうがいいんじゃない?と思ったのだ。

Sカップルは僕が知る中でも最も豪華な旅行をしていて美味しい食事も摂っているカップル。

そんな人たちがうちに泊まっても大丈夫なのだろうか?

晩ご飯は盛り上がり、とても楽しい夜だった。

これからの数日、Sカップルに思う存分楽しんでもらえたらいいな。