えびの高原から白鳥温泉へ。

えびの高原

白鳥温泉からの眺め

チキン南蛮

朝から、鹿児島との県境にまたがるえびの高原へ。
5月末から、ミヤマキリシマで山が染め上がるという。花は咲き始めていて、湖は驚くほど青く、透明だった。
梅雨入り前に、多くの観光客が押し寄せ、登山を楽しんでいた。
帰り道、西郷隆盛や与謝野晶子に愛されたという『白鳥温泉』へ。高台にあるため、露天風呂からはえびの市を見渡すことが出来る。
道の駅に寄り宮崎に戻り、『粋仙http://s.tabelog.com/miyazaki/A4501/A450101/45000531/』へ。
駅のそばのプレハブのような居酒屋。宮崎地鶏のももや軟骨をいただき、念願のチキン南蛮を。地鶏は、肉の弾力がブロイラーとは全く違ってコリコリしている。それでいて、チキン南蛮は、しっとり柔らかい。
たっぷり地鶏を味わって、思い残すこともなく、東京へ。 また来たいな。宮崎。

一心鮨 光洋

アナジャコ(熊本ではシャク)

宮崎で評判の『一心鮨 光洋』へ。
まるで、レストランのようなお洒落な一軒家を入ると、13人くらい座れる長いカウンターがあって、カウンターの奥には、ライトアップされた庭が借景のように広がる。
大将と、二人のお弟子さんが腕をふるう。この店には、メートルドテルもいて、イタリアの珍しいワインも取り揃えている。
お任せのコースは、最初に鯛の炙り寿司が出て来て、白ワインの一献も出され、その後は、海藻の酢の物、野菜のジュレ、イカの口、トリ貝、みる貝、キンキの肝、アジ、鯛、タコ、鰹の酒盗、鰹、キンキの煮付けには、イタリアの珍しい赤ワインを合わせられた。
握りも素晴らしく、赤身、トロ、コハダ、イカ、車海老、鰆、キングサーモン、最後の穴子を食べる頃、このままずーっとここでお寿司を食べ続けていたいと思う。
大将は、それぞれの旨味を引き出すために、食材によって、シャリも調理の仕方を変えている。
カウンターから見る、寿司職人の立ち居振る舞いは、まるで舞台を見ているようだった。
また、宮崎を訪れる時には、必ず来たいと思った素晴らしい鮨屋さん。
★『一心鮨 光洋』http://s.tabelog.com/miyazaki/A4501/A450101/45000157/

宮崎の、南へ。

青島神社

鵜戸神宮

朝から車で、南下をはじめる。
先ずは、『青島神社』。海の中に、鬼の洗濯岩と言われる、洗濯板のような岩岩が現れ、遠くに鳥居が見える。小さな島は、亜熱帯植物が生息するジャングルだ。真夏のような気温だったのに、青島神社の中のジャングルだけは、不思議と冷んやりとした空気が溢れていた。
『鵜戸神宮』へ。日本民族発症の地とされる。宮崎は、神話に登場する神々のゆかりある場所がある。1300年の時を超えて、この海の岸壁に人が詣でるのには、僕には分からない何か理由があるのかもしれない。
一路、『都井岬』へ。
南に行くに従って、道は狭くなり、白浜の美しい海岸が姿を現す。宮崎の最南端の『都井岬』は、馬が放牧され、野生化している。ここには、日本でも数少ない中に入れる灯台がある。灯台に登り、青い海と、蘇鉄が群生する景色を眺める。
宮崎の海岸線は、とても走りやすく、日本の海とは思えない美しい海岸が幾つもある。
日本の田舎を旅するたびに、それぞれの地方特有の景色の美しさに、改めて驚かされる。

宮崎で、宮崎牛。

牛タン

ランプから、サーロインまで

レバー、ホルモン、心臓

人生で初めて、宮崎に来た。到着するや否や、まずは宮崎牛をいただく。
『みょうが屋http://s.tabelog.com/miyazaki/A4501/A450101/45000273/』は、小さな一軒家の居酒屋に見えるけど、お店の中は満席で、丸見えの厨房は活気がある。
地元の人々に愛される、焼肉屋というよりも、肉専門店といった感じか。5千円くらいのコースを頼むと、少しずつ様々な肉の部位で、それぞれに合った食べ方でお肉が運ばれる。
牛タンは、3種類の部位で、ランプ、イチボ、ヘレ、シャトーブリアン、サーロインと食べ進むうちに、宮崎牛の肉そのものの旨味に、唸りをあげる。
最後のニンニクチャーハンの鍋が、大将によって揺すられる頃には、美味しそうなニンニクの香りと満腹感で満たされる。
Kは、焼肉屋だと、俄然目の色が変わって仕切り出すのが可笑しい。
大将の人柄に溢れたいいお店だ。

イメージ。

先日、ふと気づいたことがある。
昔、映画『シングルマン』を観た後のこと。映画の中で、コリン・ファースと若い恋人が、長いソファで向かい合って座っていて、お互いに別々の本(うる覚えだけどコリン・ファースは、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』のような硬めの本、若い恋人は、柔らかめのカポーティの『ティファニーで朝食を』)を読んでいる。
コリン・ファースは、若い恋人の読んでいる本を、ちょっと小馬鹿にしている感じだけど、そんな何気ない日常の一場面が、二人にとってかけがえのない幸福な時間だったということを感じさせてくれる名シーンだ。
このシーンを観て、当時独りだった僕は、『ああ、あんな、なにげない日常が、ほんとうの幸福なんだよなぁ』としみじみと思った。
そしてなぜか、次の恋愛は、自分がソファに足を投げて二人で向かい合って座っていて、お互いに好きなことをやっている。若い恋人は、こんな感じで(これはかなりリアルに)と何となく思い描いていた。
前に、Kが東京に来た時に、自分がシングルマンの映画と同じことをしていることに気づいた。ソファにKと二人で向かい合って座っていて、僕は海外の小説を読んでいて、Kは・・・・・・『未来少年コナン』を読んでいた(笑)
自分の頭が真っ白な状態の時に、思い描く確かなイメージ(意識)は、少し時間をおいて実現されるということが、いくつかの本で描かれている。
それが、本当かどうかは分からないけど、人間は、早く移動することを思い描いて、自動車を発明したし、空を飛ぶことを思い描いて飛行機も生まれた。そんなことを思うと、人間の意識というのは、現実の世界を少なからず作り出していると言ってもいいかもしれない。
僕とKのことなんて、「そんなの映画の観過ぎだよ」と思うこともできる。でも、もし、人間の思い描くイメージ(意識)が、ちょっと時間をおいて現実化してゆくのなら、こんなに面白いことはないと思う。

アジア料理。

バインセオのランチ

排骨チャーハンと担仔麺ランチ

タイカレーランチ

ここ数日、昼間は少しずつ暑くなって来て、湿度も上がって来たようだ。
僕が、アジアに旅行をするようになったのは、ここ5年くらいなのだけど、中でも台北には昨年だけでも8回行ったくらい、友人も出来、居心地のよさを感じている。
その前は、ソウルに男が出来て通い詰めたり、中国に男が出来ていくつかの都市に行ってみたり、その男とタイのサムイ島に行ってみたり、昨年ベトナムのホーチミンに行ったのも面白い経験だった。(振り返ってみると、全部男がらみのような気もする…(。-_-。))
アジアを旅行していても、楽しみは俄然食べることだ。アジア独特の、高温で湿気の多い季節を乗り切るために、それぞれの国で料理は進化を遂げて来たのだろう。
東京でも、昔はアジア料理なんて、中華か韓国かタイかインドが少しあるくらいだったのに、このところ、ものすごい勢いで増えていると思う。
フォーだって、バインセオだって、ガパオだって、担仔麺だって、普通に食べることが出来るのだから。
Kと付き合い出して、僕のアジア男探しの旅にも、ピリオドが打たれた。『なんだ、男は、九州にいたのだ!』と。
それでも時々、アジアの雑踏がちょっと懐かしくなる時もある。友人は、台湾にKも一緒に行けばいいじゃん!と言う。でも言ったそばから、『あ、でも、Kと一緒に行くということは、お弁当を持って、レストランに行くようなものね…』と言われる。
今のところ、お弁当を持って、レストランに行くのは、10月末のパレードの頃の予定だ。
時々、アジアが懐かしくなったとしても、アジア料理を食べてなんとか乗り切ることにしよう。

苦手な人はいますか?

飲みに行ったら、前から知っているけど、なんだか面倒くさそうで、今までほとんど会話をしたこともなかった人に、突然話しかけられた。
『愛 アムール』ご覧になりましたか?
僕は、「凄い映画だと思うし、監督ハネケの意思を感じるなあ、好きとか嫌いではなく、将来の自分の姿を見せつけられたような凄い映画」とこたえた。(『愛 アムール』については、このブログの1/29に取り上げてありますhttp://jingumae.petit.cc/banana/20130129000000.html)
僕は、誰とでも気軽に話す方だと思うし、話しかけられやすい方だと思う(道を聞かれることが尋常でなく多い)けど、ごく稀に、自分からは近づかない人もいる。
色々考えてみると、彼の場合は、洋服があまりにも華美だったのが気になっていたようだ。
ジャケットの上から、エルメスの大判のスカーフを身体にまとっている感じとでも言おうか。全身からは、むせかえらんばかりの香水の匂いがするし、時々、つば付きの帽子まであったりするのだ…
でも、実際に話をしてみると、映画の細かいセリフまで覚えていたり、僕とは違う視点だけど、映画の捉え方が彼独自で、とても興味深い人だということが分かった。
誰かを見て、苦手だなぁと思ったり、あまり好きになれないと思う時は、その人の持っているその苦手な部分が、自分の中にもあることがある。
フェミニンな装いの男の人を見て、居心地の悪さを感じたら、自分の中にもフェミニンな要素があって、それを自分が受け入れていないという証なのだ。
それが分かり、その人の苦手な部分を受け入れることが出来ると、自分も自分の中の苦手な部分から解放される。
世界はいつも、自分の内面を映し出して見せてくれていることがわかる。

自転車。

ベランダのジューンベリーの実が色づきはじめた。
買ってから15年くらい経つプジョーの自転車が、
ここ何年か、駐輪場に置きっぱなしになっていた。
修理をお願いしたところ、
両輪を付け替えるので1万5千円と言われた。
何年も乗っていなかったため、錆びてしまい、
今は哀れな姿になってしまっている。
洋服でも、鞄でも、靴でも、食器でも、洗濯機でも、家でも、
物は、人間や、動物や、植物と同じように、
注目されなければ、離れていってしまうと感じる。
適度な関心と愛情を持って接している物と、
まったく無関心になってしまった物とは、
その物との精神的な距離感が全然違ってくるから不思議だ。
そして、遠く離れてしまった物とは、
その距離を縮めるのはなかなか難しい。
かわいそうだけど、粗大ゴミに持って行ってもらう手続きをしたら、
なんだか急に、昔、自転車ばかり乗っていた生活を思い出し、
新しい自転車を買おうかとあれこれホームページを見てみる。
今の所、迷っているものは、イタリアのABICIhttp://www.abici.jp/
というブランドの町乗りのもの。
よくよく考えてみたら、世の中の流行とは逆行して、
自分があまり早く走ることに興味がないということが分かった。
身体は、あまり前傾にならずに、タイヤは細すぎず、
雨の日でも乗れて、鼻歌でも唄いながら走れる自転車が理想だ。
みんなは嫌がるけど、籐の籠がついていてもいいかもしれない。
どうせ、ネギや大根やセロリを入れて走るのだから・・・笑。
自転車を捨てることを、Kに告げると、Kからメッセージが届いた。
「ちょうど、自転車が欲しいと思っていたんです。
今度、宮崎で会う時に、乗ってきてください」

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』『愛さえあれば』

ビル・カニンガム&ニューヨーク

愛さえあれば

★ビル・カニンガム&ニューヨークhttp://www.bcny.jp/
NYタイムズで、道ゆく人とファッションを長年追い続けた写真家のドキュメンタリー。
正直で、人間味に溢れる優しいビルは、人を仕事や有名無名によって判断することなく、お金に縛られることもなく自由に生きている。その姿は、清々しく、羨ましくもある。
信念を持ち、贅沢をせず、人生のすべてを仕事に捧げる生き方は、かっこいいと思うけど、「ゲイですか?」と突っ込まれても、ハッキリしないまま…
「恋愛などしている時間は無かった」と言い張るけど、昔、何がしかの恋愛はあったのだろう。そうでなかったら、あれほどまでに人に対する優しい視点を持つことや、人物だけを追い続けることなど、出来なかったのではないだろうか?
もしも、ニューヨークでビルに会ったら、抱きしめたくなるようなかわいいおじいさんだった。
★愛さえあればhttp://www.aisaeareba.jp/
イタリアの風景が出ているだけで、迷わずその映画を観たくなるから不思議だ。アカデミー外国語映画賞に輝いた、『未来を生きる君たちへ』の女性監督スサンネ・ビアが贈る、大人のラブコメ。
アマルフィ海岸の起点の町、ソレントで結婚式をあげることになった子どもたちの式に出席するべく、北欧からイタリアに行く二つの家族の話。
『未来を生きる君たちへ』にも出ていたトリーネ・ディアホルムというお母さん役の女性が素晴らしかった。そして、ピアース・ブロスナン。年をとってもファッションブランドのモデルのようだけど、やっぱりかっこいいなぁと思う。
予告だけでほとんどすべて分かってしまうような映画だけど、実は、女性にとって、とても繊細なテーマにのぞんでいたし、美しい景色とともに見応えがあった。
あれほど自分の好きなイタリアのアマルフィ海岸の景色を見せつけられると、「何もかも捨ててイタリアに行き、ワインやパスタを食べながらこのままずっとイタリアで暮らしたい…」と夢想してしまった。
いつかイタリアの田舎町に家を持ち、安穏と暮らすことができますように…。

母をたずねて。

久しぶりに、母の家に行った。
僕が今のマンションに引っ越す時に、植物が置けないので、沢山の植物を、母の家に無理やり運んだこともあり、色々な花が咲くたびに、見に来いという電話はあったのだけど、なかなか予定を合わせられずにいた。
僕が小さな頃の写真を、何枚か揃えて僕に渡すように用意してあり、今は空き家になっている一軒の家も、売りに出すことを考えていると言う。
母は、71歳だけど、この頃少しずつ、自分の身辺整理を始めているような気がする。
僕の好きな唐揚げや、天ぷらや、大根の葉の煮浸しや、サラダをたっぷり用意して、帰りにも、畑で採れた沢山の野菜を僕に持たせてくれた。
梅雨に入る前のこの季節、世界は美しさに満ちている。
バラは咲き乱れ、樹々は新緑で萌え、遠くから、小学校の運動会の音が聞こえて来た。ジョギングする人も、心地よさそうで、自転車に乗る親子も、楽しそうに横を通り過ぎてゆく。
今日のような日は、そんな日常の何気ない光景が、まるでスローモーションのように感じられるから不思議だ。
遠く、僕の姿が見えなくなるまで手を降り続ける小さな母を見ながら、何度も思った。
あぁ、世界は、なんて美しいのかと。