元気に走り回る日を夢見て。

朝、最初に手術をしてくれた病院に行き、傷口の経過を調べてもらう。今日の診察で今後の抜糸までの日取りが見えて来そうだ。

海は思った以上に傷の回復が早いとのこと、大きく胸を撫で下ろした。

家に帰って海の気晴らしに散歩に行くと、完全に液体のうんちをしたので狼狽えてしまった。

抗生剤の影響だろうか、お尻にうんちをつけたまま歩く海の後ろ姿を、汚いものというよりも堪らなく愛おしく感じていた。

海はあの事故の後、お店の人に痛い思いをさせられたからか、傷口の痛みからか少し元気がなく、僕が離れると不安になるのか子犬の頃のようについて回っている。

ベッドでも今は僕の枕に頭をつけてすやすや寝息を立てている姿を見ると、たまらなくせつなくなる。

「早く元気になって、思う存分ドッグランで駆け回らしてあげたいね」

Kとふたり、そんな話をしている。

健康で元気に走り回っているだけで、海はそれだけで幸せなのだ。

眠れずに病院へ。

海の縫い合わされた傷口はどんな風になっているのか、包帯が巻いてあるので見ることはできない。

傷口の写真と縫い合わされた写真を見る限り、きちんとくっついてくれればきれいに回復するかもしれないと思える。

この2日間は、灯りを1つつけたまま海が包帯をかじったりしないように見張っていたけど、海はやはり不安なのか、僕の枕に顔を乗せて一緒に寝ていた。

昨夜、真夜中にふと気づくと、海が前脚の包帯の先を執拗に舐めていた。その行為は注意してもそのまま続き、気づくと朝方も舐め続けていた。

シーツやソファには微かに血の色のシミがついていたので、傷口から液体が漏れてきているのかもしれない。

腕が極度に強く縛られていてもしかしたら血流が悪くなっていて血が通らなくなっているのかもしれない。

バイ菌が入って酷く痛むのかもしれない。

脚が腐って行ってしまったら、切断なんてことも起こるかも…

朝方、不安に押しつぶされそうになりながら、休日にもかかわらず先生に電話をしてメッセージを残した。

その後、電話が来て午後2時以降なら病院に行けると言われたが、いつもの行きつけの動物病院ならば空いているのでそちらに急遽駆けつけて診察してもらうことにした。

包帯を恐る恐るめくっていき傷口が見えると、「きれいに塞がってきてますね…でもこの分泌液がどんどん出てきて溢れていてそれを舐めていたんでしょうね」

傷口はとてもきれいに塞がりかけていて、肌に赤味は残るもののこのままいけばきれいに治ってくれそうに見えた。前脚も後脚も傷口は順調で、僕の不安は一気に吹き飛んでいった。

休日も午前中だけでも開いていて、安心のできる動物病院があるのは心強いことだ。先生や看護士さんたちを抱きしめたいと思うほどありがたく思えたのだった。

気晴らしに海へ。

海の事故が起こって以来、生活は海の介護一色になり、本当は引越しの準備をするつもりが何も手につけられないまま過ぎている。

今日は晴れて天気も良かったので、久しぶりに熱海の海へ行きライスボールに顔を出すことにした。

ライスボールには海がトリミングをしたお店を紹介してくださったおばさんもいるので、報告がてら行くことに。

海はこのお店が大好きで、おばさんもママにもとてもなついている。産まれてから数ヶ月経って社会化が必要な時に、この店で人や犬に触れていったと言っても過言ではないだろう。

叔母さんやママを見つけると、興奮状態で喜ぶ海。そして、周りのお客さんも海を見て笑ってる。

おばさんたちは「騒ぎを大きくして訴えた方がいいですよ」などと僕にいうのだけど、今の僕は誰かの過失を責めるよりも、もうこれ以上海が傷つかないように、怖い思いをしないように守ってあげることしか考えることができない。

人の多い熱海のハーバーやサンビーチを歩くと、海を見た人たちから声がかかる。

スタンダードプードルはあまりいないので珍しいのもあるけど、いつも「かわいい!」と言われるので海もまんざらでもなさそうな顔をしてる。

海辺の風に吹かれて暖かい太陽を浴びて、海も気分転換になったに違いない。

海という奇跡。

海のお腹はほんのりピンク色で、皮はまるで一枚の薄皮のようで、その下に血や内臓があるのかと思うと怖くなるくらい柔らかい。

仰向けになった海のお腹を触りながら、海がこの壊れやすい繊細な身体で今日も生きていてくれることを奇跡のように思う。

時々全く動かなくて、寝息も感じられないような時に、眠っているのかほんとに生きているのだろうかと思い海に近づいてみることがある。

海は静かに息をして呼吸も小さく寝ていることがわかると、この小さな命が今日も生きていることをありがたく思う。

素直で、やさしくて、人も犬も大好きだから誰にでも近寄っていく疑うことを知らない海を、人間の不注意で酷い怪我を負わせてしまったことが悔しくてたまらない。

その包帯姿があまりにも辛いから、何度も抱きしめて「ごめんね。ごめんね。こんな痛い目に遭わせてしまってごめんね。海」と泣いてしまう。

海は僕の思いなどわからないだろうけど、僕の涙を一生懸命に舐めてくれる。

海は、僕にとって奇跡であり、この世界においてありえないような純粋でやさしい存在。

ごめんね。海。

朝、海をピックアップする時間を決めようとトリミングサロンに電話をすると、係の人がやけに落ち着いて「今、お電話しようと思っていたところでした」という。

「今朝、海ちゃんのケージに行って見たところ、血だらけの痕跡がありまして、私ども確認したところ、指先から出血していて、毛玉を切る時にハサミかバリカンが当たってしまったようなんです。担当者は気づかなかったって言うのでそのままにしていたところ、海ちゃんが舐めてしまっているようで…」

僕は血の気が引いて行くのを感じながら震えていた。
「それで、どんな傷なんですか?」

「指と指の間の肉球のところを切っているようで、隣の獣医に診てもらったところ、2、3針は縫わないといけないと言ってます。処置は早いほうがいいと思うのでどうしましょうか?」

「すぐに縫って処置してください。そちらに何時にいけばいいですか?処置が終わりそうな時間が見えたら連絡してください」

「部分麻酔等ありますので、午後になるかと思いますがわかり次第お電話します」

ありえない出来事が起こった。ネットではトリミングサロンで切られたと言う話は載っているが、まさかうちの海に起こるなんて。

午後になり埒があかないので病院に電話をして獣医さんと話したところ、傷口は後ろ足だけではなく、前脚も2箇所刃物で切れたような痕があるとのこと。

怒りでいっぱいになりながらも、先生に今後の対応を聞いた。

「間違いなくトリミングの際の事故ですね。なんで気づかないのかわかりません」

「幸い筋肉や骨には異常は見られませんし、普通に歩いてびっこも引いてなかったので、大丈夫だと思いますよ」

果たして、海は責任者によって車で運ばれて来た。後部座席でエリザベスカラーをつけた海は、怯えていて、僕が車の中に手を伸ばせしても震えているのがわかる。

海を抱き抱えて家の中に入り、首輪屋エリザベスカラーを外して海を抱きしめて嗚咽のように泣いた。

「ごめんね。海。こんな目に遭わせて…ごめんね。ごめんね。痛かったね。痛かったね。もう大丈夫だからね。ごめんね」

激しい悲しみと怒りが込み上げて来て、責任者に怒鳴っていた。
「なんでこんなに無邪気な犬を、こんな目に遭わせるんですか?あんたたち、人間のやることじゃない!」

その後、責任者が完全に自分達の過失をであると話している間、僕は念のために話している内容を録音しておいた。何かあった時に問題になるのを防ぐ為に。

傷口の写真は怖くて最初見られなかったけど、後ほど冷静になってよく見て見た。あまりにも痛そうな傷跡を見ながら、海を抱きしめて何度も泣いた。

言葉が喋れない犬にこんな酷い仕打ちをするなんて、血の通った人間の為せる技とは思えない。

こんな酷い目に遭わせてしまった自分を責め続け、胸が押しつぶされそうな気持ちのまま、海とふたりでベッドに入った。

自分の中に、怒りがこんなに湧いたのは久しぶりのこと。この負の感情をどうやったら手放すことが出来るか、布団の中で悶々としていた。

赦すということが、人間にとっていかに難しいか、今日はつくづく噛み締めている。

熱海にも雪。

粉雪のような雪が降り始めたのは午前中。どうせすぐにやむと思って海を予定通りトリミングに預けた。

粉雪はいつしか本降りの雪に変わり、家の周りは白銀の世界になっていった。

夕方、海のトリミングが終わったようなので車で迎えに出かけようかと思ったところ、タイヤが路面で空回りして思うように進めない。坂道で止まってしまったので慌ててバックしてなんとか家の前まで戻すことができた。

スタッドレスタイヤもないし、チェーンもない。だって、熱海で雪が降るなんて思わないではないか。

トリミングサロンに電話をして、幸いホテルもやっているので1日海を預かっていただくように手配した。でも、電話の向こうで海が大きな声で泣き叫んでいるのが聞こえて胸が痛くなった。

海は頭がいいので、電話の声が僕だとはっきりわかったのだと思う。家で電話をしていても、Kの声だとすぐに反応するのだ。

明日はKも大分の実家に帰る日。大雪の中、明日はどうか道の雪が溶けてくれますようにと祈るばかりだった。

熱海桜。

12月末くらいから、にわかに熱海桜が咲き始めた。

12月に咲く桜が町のいたる所にあるなんて、なんて素敵なことだろう。

海を連れて来宮神社に歩いて散歩がてらお参りに行くつもりが、あまりの人の多さに諦めて、てくてく山を登って休み休み歩いては帰ってきた。

気温は低いものの、梅園では紅梅がポツポツと咲き始めていて、熱海は早くも春を独り占めしているかのように見える。

ご近所のYさん。

僕たちの家の上の桜並木に住んでいるYさんはお茶の先生をやっている女性だ。海の散歩をしている時にYさんはダックスを散歩していて知り合い、お宅にお邪魔したこともあった。

熱海にも家を持っているけど、東京には麻布十番に家を持ち、そのマンションの建て直しに伴い白金代に一軒家を購入することにしたそうだ。

しばらく東京に行っていたので久しぶりに熱海に帰ってきてうちに遊びにきた。

とてもお話好きな人で、2時に来てお茶とケーキを食べながら宮古島や白金代の新居の話をしながら結局5時頃まで我が家にいたことになる。

ネガティブなことは一切言わない人で、僕たちの宮古島家さがしの珍道中の話を聞きながらケラケラ笑い、「すごくいい決断だと思いますよ。本当に楽しみねえ・・・」と言ってくれる。

このYさん、年齢は75歳くらいだろうか。熱海に引っ越してきてこうやって年寄りと呼ばれる人たちと何人も知り合いになった。

昔は、歳をとると遅かれ早かれみんな呆けてしまうようなイメージがあったけど、人は歳をとったからといって、誰もが子どものように意識が薄れて呆けて何もわからない存在になっていくわけではないのだ。

僕が出会った熱海の年上の人たちは、リタイアしていてもとても意識がはっきりとしていて、色々な話が普通にできる経験豊かな人たちばかりだったように思う。

もっともっと時間を作って、ひとり1人との会話をしておきたかったと」今になって思っているくらいだ。

母の家へ。

朝早くから家を出て、Kと海と車に乗って千葉にある母の家に向かった。途中、湯河原のドッグランで海を遊ばせて発散させてから、道は空いていたので2時間半くらいで到着した。

海は前にも実家に来ていたのだけど、それも半年前くらいだったので大きくなった海を見てお父さんは「おっきくなって少し怖いね・・・」と言っていた。

いつものように僕の好きな唐揚げとグラタンが並び、たまごサンドも作ってある。Kは運転するからお酒は飲まず、僕はビールを飲みながら宮古島の家の写真を見せてこれまで起こった様々な問題の話をする。

父も母も沖縄には行ったことがあるけど宮古島には行ったことがないので、「暑いのかねえ・・・海は綺麗なんでしょう?」などと聞いてくる。

Kにはもう何度も会っているので、父も母もどんどんKに話しかける。病院はどうしたの?これから病院にはもう勤めないの?Kは色々な質問に丁寧に答えている。まるで夫の実家に行った妻のように。

帰り際、車を見送る母を見ていたKがポツリと言った。

「お母さん、すごく寂しそうな顔してたよ・・・」

「うん。やっぱり宮古島って遠いし、今までのようにすぐに会える感じがしないからだろうね・・・」

少し切ない気持ちのまま、宮古島引越し前の母との別れを噛み締めた。

Kの実家からブリが届いた。

元旦にKの大分の実家から大きなブリが半身送られてきた。

写真だとちょっと大きさが分かりづらいけど、この切り身で長さが45cmくらい。箱の中からブリが出てきた時は、「えええ?こんなにでかいの?!」と声をあげてしまった。

お正月に僕たちがお節料理を送ったため、ご両親が気にしてくれているのか、毎年のようにブリを送ってくれる。

遠くに住む三男に、今年も大分のブリを食べさせてあげたいという純粋な親心なのだろう。

Kはブリを捌くのは自分の役目だと思っていたようで、肘捲りをして張り切ってブリを切ってくれた。

切りながら、「お父さんはこの腹身のところは骨があるから、ブリ大根と一緒に煮てたよ」、「お父さんはこうやって切ってた」「お父さんはここの実が茶色くなるまで熟成したブリが好きだった」などと、お父さんのことばかり何度も出てくる。

ブリを切りながらKは、大分に住むお父さんとお母さんに何度も想いを馳せているようだっ
た。