食べて、祈って、恋をして

『食べて、祈って、恋をして』というタイトルを読んで思うことは、
「ああ、その映画なら知ってるよ。ジュリア・ロバーツが出てた映画でしょ?」
かもしれない。でも、原作と映画はまったく違うのだ。映画はハッキリ言って失敗作だったのだけど、小説は滅茶苦茶よく出来ている作品なのだ。
僕は、著者のエリザベス・ギルバートの本『巡礼者たち』を随分前に読んでいて好きだったので、『食べて、祈って、恋をして』が2009年に書店に並んだ時に迷わず買って、長編にも関わらずハラハラしながら一気に読んでしまった。
今回バリ島行きが決まった時に、なんだかふと頭の中をこの本がかすめて、家中探し回ってもう捨ててしまったかと諦めかけた矢先、なぜかエッセイの棚に紛れていて狂喜したのだった。(残念ながら、この表紙の本は今では絶版になってしまったようだ)
でも、『一度読んで、もう一度読み返す小説』って、あるだろうか?
僕はよくよく考えてみると、サリンジャーの『フラニーとズーイー』、『キャッチャーインザライ』、そして、アイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』くらいだと思う。そしてこの本『食べて、祈って、恋をして』も、珍しくそんな本の中の一冊に仲間入りしたわけだ。
映画をご覧になった方はご存知だとは思うが、『食べて、祈って、恋をして』のタイトルがそのまま、『イタリア、インド、バリ島』のそれぞれ4ヶ月間合計1年間に及ぶ海外滞在記になっているのだけど、このそれぞれの町の細部にまで渡る描写が、まるでその土地を自分が旅行しているかのように感じられるのが何よりの魅力だろう。
その当時何よりも共感できたのは、主人公が30代後半で何不自由のない満ち足りた暮らしを過ごしていたはずが、泥沼離婚になり、すべての財産を失って1年間の海外生活に漕ぎ出すというジェットコースターのような人生に、自分の破天荒になってしまった人生を重ね合わせたからだろうか。
ここでひとつ、イタリアの章の好きな部分を抜粋しておこう。(以下)
『今日わたしたちがフランス語と呼ぶものは、中世パリ語の流れを汲む言語で、もとをたどればポルトガル語はリスボン語、スペイン語はマドリード語だった。資力財力の勝利。最も力を持つ都市が、最終的にその国全体の言語を決定づけた。
ただし、イタリアの場合は事情が違った。
(中略)
十六世紀になると、イタリアの知識人たちが集まって、このままにしておくのはあまりにも不都合だと結論した。イタリア半島には、皆から承認されるようなイタリアの言語が、せめて書き言葉として必要だ。彼らはそう考え、ヨーロッパ歴史上ほかに類を見ない取り組みを開始した。あらゆる地方語の最も美しい部分を選びとり、”イタリア語”という世界に冠たる言語をつくるという取り組みを。』
ね。なんだか、わくわくしませんか?
⭐︎『食べて、祈って、恋をして』 女が直面するあらゆること探求の書
エリザベス・ギルバート著 那波かおり訳
ランダムハウス講談社
カテゴリーbook

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