ゲイが自分の子どもを持つということ。その2

一昨日書いた代理母出産のことは、とても難しい話だと思う。
それは、自然や神様の力ではなく、人間が、子どもを産むことを操作するという、長い歴史の中でタブーとされていたことを遂にやりはじめたことに対する生理的な反応があるからだろう。
エルトン・ジョンのカップルは、体外受精をして2人の子どもを持ち育てているが、先日もドルガバとの壮絶な喧嘩が話題になったばかりだ。
ドルチェ&ガッバーナ
「僕たちはゲイの養子縁組に反対だ。
家族と言えるのは伝統的な家族体型だけだよ。
化学的な受精や借り物の卵巣なんてダメさ。
生とは自然な流れなんだ。
これは変わるべきことじゃないんだ」
エルトン・ジョン
「僕の美しい子どもたちをよくも『人工的』だなんて言ってくれたな。
ストレートであろうとゲイであろうと、子どもを持ちたい多くの愛情ある人たちの夢を実現させてくれる奇跡とさえ言える体外受精に、その批判的な小さな指を突き付けるなんて恥を知れ。
お前たちの大昔の考え方は時代遅れも甚だしい。まさにお前たちのファッションそのものだ。
ドルチェ・アンド・ガッバーナなんて僕は今後一切着るもんか」
僕も、今回のセミナーで様々なことを考えさせられた。
未だにハッキリとわからないのは、生まれてくる子どもが、この日本においてきちんと認知されて、父親になれるのかどうかということ。
それさえ確実にクリアされるのならば、僕は代理母出産をして子どもを持ちたいと思い、実現する人がいてもいいと思う。
だいたい1500万とか言われる額が大き過ぎるとは僕も思う。
でも、よくよく考えてみると、代理母は子どもを産むためにおよそ一年間近く自分の人生を捧げるのだ。代理母のケアだけでもちょっと想像できない額が必要ではないかと僕は思う。
もし愛情溢れるふたりの人間が(ここにセクシュアリティは関係ないと思う)、子どもを産むことが出来なかった場合に、自分たちも子どもを育てたい。家族を持ちたいと思った時に、それを、諦めなくてはいけないのだろうか?
代理母、もしくは体外受精という形で子どもを授かることは、やってはいけないことなのだろうか?
僕はそれは、それぞれのカップルが決めればいいことだという立場だ。そもそも、誰か他者が、人の人生の決断を、批判したり裁くこと自体がおかしいと思うからだ。
僕たちの目の前で、セクシュアルマイノリティを取り巻く環境は、刻一刻と変わってきていることをひしひしと感じている。
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