消えてゆく記憶。

友人Mのお母さんは90歳。先日お見舞いに行った時には、僕のことさえもはやわからず、ここ数ヶ月でぐっと痴呆が進んだように思っていたのだけど、Mが数日前に会いに行っていた時は、百人一首の上の句を言えば、その続きをスラスラと答えていたそうだ。
僕の祖母も90歳を過ぎて痴呆になった時に、小学校で習ったのか唱歌だけは覚えていて、よく歌っていたのを思い出す。人には、ずっと忘れずに覚えていられるものがあるのだろう。
その友人Mと、5年前くらいだろうか、いつものようにニューヨークに一緒に行き、ついでにワシントンD.C.に二泊くらいで芝居を観に行ったことがあった。
その時にワシントンD.C.を案内してくれた韓国系アメリカ人のRが先日東京に遊びに来ていたのだけど、Rを連れてMの店『Bridge』に遊びに行ったのだけど、なんと、MはすっかりRのことを忘れてしまっていたのだった。
ご飯を食べて、ワシントンD.C.の観光名所を巡り、博物館にも行き、ゲイバーにも連れて行ってもらい、ホテルに帰ったらMがスマホを店に忘れていて、それを連絡するとRがわざわざ店に行って持って来てくれたのだった。
Mは、その一部始終を忘れていて、いくら説明しても思い出せないし、Rの恋人のアメリカ人のTのことも、まるで記憶にないようだった。(驚くことに、Mは観たミュージカル以外のことは全て忘れてしまっているみたい)
ここまで書いておいて、これではまるで、”Mはただの痴呆”のような話に見えるけど、そうではなくて、僕もよく考えてみると、ワシントンD.C.の旅行のことは所々うる覚えなのだ。
ホテルに豹柄のバスローブがあって、「女豹になれということか…」と思ったこととか、名所でもあるリンカーンの説明があるところや博物館は覚えている。
でも、5年前の旅の記憶を事細かに思い出せるかと言うと、全然思い出せないことの方が多いのだ。
人間は、毎瞬毎瞬目の前の出来事に触れているのだ。そのすべてを覚えていたら、恐らくすぐに気が狂ってしまうに違いない。(きっと思い出せないだけで、潜在意識の中には、経験したすべてがそっくりそのまま残っているのかもしれないのだけど)
でも、たとえ記憶の底から思い出すことが出来なくなってしまうとしても、旅に出たり、美味しいものを食べたり、誰かと笑ったり、様々な体験をするということは、僕たちにとっては宝物のように思える。
いつか時が経って記憶として蘇ることがなくなったとしても、体験しているその時は、僕たちはきっとキラキラと輝いているのだ。

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