友人のお母さんに会いに。神戸へ。1

Kは大分でお留守番をさせて、ひとりでふらりと大阪に来たものの、決めていた予定もなかったので、不意に思いついて友人のお母さんに会いに行くことにした。
お母さんは先月90歳になったばかり。身体のどこかが悪いわけではないのだけど、足腰が弱ったこともあり数年前から施設に入っている。
数年前、お母さんがまだ元気な時は、時々東京に遊びにいらっしゃっるたびに、僕も一緒に食事をしたり、お酒を飲んだりしたものだ。
それが、80代後半にさしかかり、小さな段差で何度か転倒して次第に足腰が弱くなり、今は歩行器か車椅子を使って歩くようになってしまった。
なんの連絡もせずひょっこり顔を出した僕を見るなり、お母さんは涙を流しはじめた。
「あらぁ…まぁ…東京から遠いところをわざわざ…ありがとうございます…私なんかに会いに来てくださって…」
僕は、「大阪に遊びに来たのですけど、大阪から近いのでお母さんに会いに来てみたんです」と答えたのだけど、お母さんはその後も何度も泣いていた。
人間の感情の中で、最もつらいのは、『寂しさ』なのかもしれない。
様々な理由があって施設に入った時に、お母さんは暫く、寂しくて寂しくて空を見ながら夜通し泣いたそうだ。周りは痴呆の人なども多いし、全く知らない人と話すことも難しく、施設での生活はやはり今までの暮らしとは違っていたのだろう。
「刺繍が好きだから今でもしたいんですけど、針の穴が小さくて手元が見えないから糸を通せないし、90にもなると細かい作業がとても億劫になってしまうんですよ…」
90歳になった時の自分は、なかなか想像出来ない。でも、今の僕でさえ細かい文字が見えなかったり、離さないと見えなかったり、暗い場所だと見えにくかったり、昔の自分とは明らかに変わって来ているのはわかっている。
僕たちのように子どもを持たないゲイは、お母さんのように年をとって行った時に、いったいどうやって生活していくのだろうか。
周りに時々顔を見せに来てくれる人はいるのだろうか。
誰にも迷惑をかけずにひとりで暮らしていけるのだろうか。
愛する人は、そばにいてくれるだろうか…。
自分も年をとっていくことを、もっときちんと考えないといけないと思ったのでした。
歩行器でエレベーターまで見送りに来てくれたお母さんに、「また来ますからね!」と手を振ったのだけど、お母さんはこちらを見ながらまた涙を浮かべていた。

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