第3回口頭弁論期日

裁判所に咲いていた金木犀

今日は、人生で初めて法廷に立って、10分間の意見陳述を行った。
会社は代休で、午前中は家でのんびりと過ごし、近所の蕎麦屋でKとふたりお蕎麦を食べてから、鳩森神社でお参りをし、Kとふたり、これからはじまる大役が、滞りなくつとまるようにと願った。
裁判所に入る前に、ふといい香りがしたので見上げると、金木犀が咲いていた。その香りは、僕たちをやさしく包んでくれているようだった。
緊張はしなかったものの、4000字の原稿というものは、読んでいても長く、聞いている方はもっと長く感じられただろうと思う。
裁判が終わって報告会の会場で、うれしいことに多くの方にお声をかけていただいた。
そのなかでも特にうれしかったことは、会場を出たところで、女性が「ハグをさせてください」と言ってきたり。男性が、「本当にかっこよかったです。ありがとうございました」と面と向かって伝えに来てくれたことだった。
この意見陳述は、すでにいくつかのメディアに取り上げられて公開されているのだけど、ここに全文を載せておこうと思う。僕たちの裁判は、実はまだ始まったばかり。これから先の長い道のりも、どうか諦めることなく、最後までKとふたり、やり通せますように。
『誰もが自由に、未来を思い描ける社会に』(2019/10/16意見陳述)         
私が50歳になり、はじめて母に、「自分は男性が好きなんだ」と自分の性的指向を打ち明けた時に、母は言いました。
「私は前からわかっていたけど、あなたは学生の頃、女の人と付き合っていたじゃない・・・もう、あなたは本当に女の人を好きになることはないの?」
母の瞳には落胆の色が見え、自分を責めているようにも感じました。私がその時に、何よりもつらく悲しかったことは、母が私のことを、「かわいそうな子」「他の子より劣っている子」と思っているように感じたことでした。
私は物心ついた頃から、好きになる人も興味の対象も、ずっと男性でした。そしてこのことは絶対に父や母や周りの人には知られないようにと幼心に決めて生きてきました。なぜなら、友達にいじめられたくなかったし、なによりも、自分の愛する父や母に、自分のことを嫌いになって欲しくなかったからです。
中学校に入り図書館で調べると、「思春期には同性に惹かれる人がいて、その後異性に惹かれる人もいるし、そのまま同性にしか惹かれない人を同性愛者という」と書かれていました。そして、自分がいつか女の子を好きになることが出来るのではないかと必死に色々なことを試しました。
がんばって彼女も作ったし、そうして仲間たちと一緒にいることで、自分も『普通の男』に見えるように振舞っていました。今思うとそれは、周りの友人たちから仲間はずれにされたくなかったからでした。でもどんなにがんばってみたところで、私の本当の心は変えることはできませんでした。
その頃いつも思っていたことは、「自分は、人間の出来損ないなのだろうか?」 「こんな自分なんか、生まれて来なければよかった」ということでした。
やがて本で知ったのは、昔、同性愛は、病気とされていた時代があり、薬を飲まされたり、精神病院に入れられたり、電気ショックを与えられたりして、性的指向を強制的に変えようとされた時代があったことでした。でも、そんな恐ろしい時代を通して人類がわかったことは、「同性愛は病気ではなく、性的指向のひとつであること。性的指向は、自らの意思でも、周りの力によってでも、無理やり変えることはできない」ということでした。
私は絶望感に襲われましたが、「自分の愛する父や母を絶対に悲しませるわけにはいかない」と思い、自分の性的指向は、死ぬまで決して誰にも知られないように生きていこうと固く心に誓いました。
それから30年以上、私はずーっと自分の性的指向を、ごく親しいゲイの友人以外には知らせずに、周りにひた隠しにしながら生きてきました。
会社の同僚や先輩に恋人のことを聞かれると、その時に関係のあった男性を、『彼女』に置き換えて話していました。親戚や母親から結婚はまだか?と聞かれるたびに、疎ましく感じていましたが、同時に、彼らが私の幸せをただ願っていることもわかっていたので酷く胸が痛みました。
小さな嘘は次の嘘を呼び、自分の周りに見えないバリアが張り巡らせていて、薄い空気の中でなんとか生きているように感じる時もありました。
それから長い間私は、心の拠りどころを求め続けていましたが、そんな8年前のある日、九州で暮らす16歳年下のかつに出会いました。かつも昔の私のように、ご両親や友人など周りには自分の性的指向を知られないように息を潜めて生きていました。
私たちは月に1回か2回、九州や関⻄で会うか、東京にかつが出てくるかを繰り返しながら交際を続けました。遠距離恋愛は3年以上続きましたが、別れる時のかつの寂しそうな顔を見るたびに、私の胸は毎回張り裂ける思いでした。
やがて私とかつはできる限り一緒にいたいと思うようになり、かつは一大決心をして安定した九州での仕事をやめ、ご両親に自分のセクシュアリティのことや私と一緒に暮らすことを打ち明けて、東京に引っ越すことにしました。
私は、賃貸マンションの契約が切り替わる時期だったため、まずは自分の名義でマンションの契約を済ませ、3ヶ月遅れる形でかつが東京に移住してくることになりました。
不動産屋さんに同居する旨を電話で伝えた時に、かつが「男性」だったためにふたりの関係を聞かれました。私は一瞬たじろぎながらも、「パートナーです」 と答えました。1つ下の階に住んでいる大家さんが、男同士の同居を認めてくれるかどうかがとても心配でしたが、私はもう嘘をつきながら生きてゆくことに疲れ果てていました。
ふたりで同じ時間を過ごすうちに、私はかつのことを、生涯寄り添って生きていけるかけがえのないパートナーであると考えはじめました。私は毎朝ごはんを作り、かつは洗濯をし、朝ごはんを一緒に食べ、先に出勤して行くかつを私は窓から手を振りながら見送ります。早く帰った日は私が晩ご飯を作り、今日あった仕事場での出来事を話しながらご飯をふたりで食べます。時には友人たちを家に呼んで、お酒を飲みながら笑い語り合う日もあります。
私が仕事のアイデアを考え続け、眠れずに迎えた朝は、かつが先に起きて外に行ってパンを買ってきてくれます。時々私が仕事で疲れて遅く帰ってくると、かつは大抵家のソファで『ちびまる子ちゃん』を見てケラケラ笑っています。私はそんなかつといると、言いようのない幸福感に包まれます。
ある日、かつの甲状腺に病変が見つかりました。私は朝まで眠れずに検査に一緒に着いて行き、診察を待ちながら、一緒に医師の診断を聞くことができるだろうか?と考えていました。この先かつが手術や入院をすることになったら、病院は私をかつの家族として認めてくれるのだろうか?と不安で堪りませんでした。
私とかつがお互いを思う気持ちは、男女の夫婦がお互いを思う気持ちと、何か違いがあるのでしょうか?
やがて私たちふたりの周りには、次第にセクシュアリティの枠を超えて様々な友人たちが増えていきました。私たちは一緒の美容院ですが、美容師さんたちは私たちの関係を知っています。80歳近い私の母や父にもかつを会わせ、一緒に食事をし、母も父もかつのことを受け入れ、これからのふたりの人生を応援してくれています。
私は今までの人生の中で、「自分が結婚する」なんてことは考えたこともなかったのですが、この裁判を知り、「もし、自分たちが結婚できたとしたら、人生はどうだっただろう?」と想像するようになりました。
家族や友人、会社の仲間たちから祝福される結婚式があったかもしれないし、ふたりで買うマイホームの計画があったかもしれない、もしかしたら子どもの成⻑を見守ることもできたかもしれません。
この先、私が万が一倒れた時には、かつは医師と治療法を話し合うことができるだろうし、考えたくはありませんが、16歳年上の私が先に亡くなる時に、かつは周りを気にせず私のそばにいられるだろうし、少ない財産でもたったひと りになってしまうかつに遺してあげることができるのです。
この春、私の会社でも、同性パートナーの届出が認められるようになりました。 調べてみると、結婚休暇、服喪休暇、家族看護休暇、育児休暇、介護休暇などが取れることを知り喜んでいたのですが、改めて調べてみると、アメリカでは結婚によって得られる社会保障などが1000以上もあるという記事を読み、「結婚できないことによって、日本でも同じような不利益を受けてきたのだろう」と思い愕然としました。
まだ若かったあの頃の自分や、今、悩みの中にいるすべてのセクシュアル・マイノリティの若者に、50歳の私が今伝えたいことは、「性的指向や性自認がどうであれ、私たちは人間として劣った存在ではなく、一人ひとり皆等しく、かけがえのない存在である」ということです。
しかし、現在の日本では、同性愛の若者は、自己肯定感が得られず、いじめや差別を恐れて自傷行為や自殺を選ぶ人が、異性愛の若者に比べて約6倍も多いという報告があります。
今日、いつも私の隣にいるはずのかつが、この場で顔を出すことができない理由は、この裁判が知られることで、九州に住むご両親やご兄姉、甥っ子や姪っ子が、周りから差別やいじめを受けるかもしれないことを恐れているためです。
『世界がもし100人の村だったら』という本の中には、100人の村の中で11人が同性愛者であると書かれています。
もしかしたらその人は、あなたの兄妹かもしれないし、息子さんか娘さんかもしれない。甥っ子か姪っ子か、おじさんかおばさんかもしれない。高校時代の恩師かもしれないし、ずっとあなたのそばにいた親友かもしれないのです。
どうか想像していただきたいのは、同性を好きになる人は、あなたのすぐそばに必ずいるということです。好むと好まざるとに関わらず、これから先もこの国には、一定の割合で同性を好きになる人は生まれ続けていくということです。
肌の白い人や黒い人、背の高い人や低い人がいるように、性的指向は、無理やり変えることのできないその人の属性であり個性の一つです。
その人の変えることの出来ない属性によって、いじめや差別を受ける。若者が命を落とす。
その人の変えることの出来ない属性によって、自分の好きな人と結婚することができない。平等の権利が与えられない。他の人よりも劣った人間のように扱われる。
そういう時代はもう、私たちの世代で終わりにしたいのです。
性的指向やセクシュアリティにかかわらず、誰もが結婚したい人と結婚できる。ふたりで自由に大きく未来を思い描ける社会になることを、私は心より願っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です