家族であること。

先週末の土曜日、久しぶりに母と伊勢丹の『分とく山』で一緒にご飯を食べた。
今年76歳になった母は奥歯の具合が悪く、先週歯医者さんで歯を2本抜いたという話は聞いていたのだ。
最後のご飯に一緒に出された人参の漬物が硬く、なかなか噛みきれなかったようで、途中で紙ナプキンに出さなければならなかった。
母は、「あんたも歯をたいせつにしなさいね」などと言って笑っていたのだけれけど、僕はとても胸が痛かった。
母が辛い思いをしているならば、できるならば僕が代わってあげたい・・・と思った。
昨夜、Kがご飯を食べた後、ふたりでソファで『ちびまる子ちゃん』を観ていたのだけど、そのあとなんだか様子がおかしくて、自分でiPadで何かを必死に探しているようだったので、僕は向かいに座って本を読んでいたのだ。
Kがシャワーを浴びている時に、何を探していたのだろうか?と気になって、いつもは気にもかけないのだけど、ふとiPadの履歴を見ると、病気を調べたようなページがいくつも出て来たのだ。
Kは病院に勤めているのだけど、これは仕事のことではないだろうと気になって、僕がシャワーを浴びる時にKに問いただしたところ、「実は10年前から小さなポリープのようなものがあって、それを最近エコーで見てもらったら、念のために細密検査をしてもらったほうがいいのでは?」と言われたのだと言う。
良さそうな病院を調べたあとに、いつ病院に行けるか、どうやって予約しようか?色々焦って聞いてくる僕に、「今は仕事が忙しくて、新人にも教えないといけないから、行けても多分来週以降になるよ」と言うのだ。
僕が、「仕事場に電話して午前半休もらえるように言うから。病院にいっしょについていくから」と言うと、Kは、「お母さんみたい」と笑うのだった。
その日、ふたりは手を握りながら、Kは安心してすぐに眠りに落ちていった。
僕は眠れずに、どうやったら早くKを病院に行かせられるだろうか・・・と、そんなことばかり考えていたのだった。
家族とは、心が見えないところで繋がっている。
その人の心が痛むとわかると、僕の心も同じように痛む。
その人が辛いのならば、できるならば代わってあげたいと思う。
何があっても、僕が守ってあげようと思う。
家族がいるということは、そういう人がいるということ。

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