よしこさん。

その昔、二丁目の新千鳥街に、『ぽけっと』という魚中心の小料理屋さんがあった。
『五郎』という、高級魚料理のお店の二階で、『よしこさん』というママがお店を取り仕切っていた。
五郎の奥さんは、おしゃべりなおばあちゃんで、着物の上に割烹着を着て上と下を行き来していた。
よしこさんは、生まれも育ちも裕福だったのだろうなあと思わせる上品さがあって、お客さんを思いやり、いつも僕や僕のパートナーを気遣ってくれた。
おばあちゃんは、おしゃべりで飲むと口が悪くなるし、ほとんど働かないで、同じことばかり話していた。
ぽけっとに行きはじめて、常連となっていく途中に、五郎さんとよしこさんが出来ているという話を、酔っ払ったおばあちゃんが僕たちにした。おばあちゃんも、飲まずにはやっていられなかったのだろう。
仲が良さそうに見えた上下の店の家庭内で、憎悪が渦巻いていることを知って、僕たちは恐ろしくなったものだ。
そのうちに、よしこさんも珍しい腫瘍に侵されていることがわかり、手術を繰り返すようになり、その後、五郎さんも腫瘍で入院して、暫くした後に亡くなり、おばあちゃんも亡くなり、よしこさんも入退院を繰り返した後に亡くなったと聞いたのは3年以上前だろうか…。
僕たちは、よしこさんの明るい笑顔とやさしい思いやりが大好きだった。
時々喧嘩をする僕たちに、よしこさんは遠くから見守るようにいつもやさしく接してくれた。
不倫とか、世の中の道に外れたこととか、様々な言われ方もしたのかもしれないけど、よしこさんは、間違いなく五郎さんを愛していたし、五郎さんも、自分の腫瘍がわかってから、僕たちにそっと、「私に何かあったら、よしこのことをお願いします」と言って、頭を下げたことがある。
今日は、東京でも梅雨の始まりで、雨が静かに降っている。
夕食の鯖を焼く時に、よしこさんがよく、焼きながらお酒を振っていたのを思い出して、鯖にお酒を振りながら、よしこさんのことを思い出した。
少し照れたようなはにかんだ表情をしたよしこさんは、今でも僕の中で、明るく微笑んでいる。

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