10周年記念日。

10月12日は僕とKがつきあいはじめてから10周年の記念日。

前日までは覚えていたのだけど、午前中にペンキ塗りをしてヘトヘトになってランチを食べる頃にふと気づいた。

僕「今日、記念日だ!」

K「朝から2回言ったのに、ただしくん気づいてなかったみたい」

僕「え?言ってたの?聞こえてなかった…ごめんね」

あれからもう10年の月日が流れたのかと思うと本当に感慨深いものがある。

晩ごはんは記念日のことをすっかり忘れていて特に何も用意してなかったので、普通に鮭のホイル包み焼きと出汁巻玉子とご飯に。冷やしてあった発泡酒を開ける。

記念日だからといって特別な料理でなくてもいい。

僕「色々あったけど、Kと一緒にいられて本当に幸せな10年間だったよ。ありがとう。Kはどうだった?」

K「幸せな10年間だった」

僕「よかった!」

奇跡のように幸せな10年間をともに過ごしてきたことと、今ここにある幸福にふたりで感謝した。

公正証書のための証人問題。

16歳年上の僕が急に倒れたり、意識不明になったり、入院した時に、パートナーのKがきちんと家族とみなされて、病院や医師から直接連絡が行き、説明を受け、治療に関する意思決定が出来るように。

僕が先に死んでしまった時に、残された財産をきちんとKに相続できるようにするためには、この国では養子縁組をするか、公正証書を自ら作るしか今のところ道はないという話を以前ここで取り上げた。

僕たちは宮古島に移住して来て色々考えた末に、この公正証書を作り法務局に提出する手続きを進めていて、それには宮古島にて2人の証人が必要になってくるという問題に直面していた。

東京と九州から移住して来た僕たちに、そんな同性カップルの権利のために証人になってくれそうな知人はいなくて、そうかといって東京からわざわざ友人を呼ぶのも気がひけていたし、どうしたものかと頭を抱えていた。

行政書士の方からなかなか良い方法が見つからず、便利屋でも使いましょうかと言われてさすがにそれは躊躇われたので、ダメでもいいかと思い以前家の登記でお世話になった司法書士のお爺さんSさんに聞いてみることにした。

Sさんの事務所に電話をすると、「もしもの時に僕のパートナーが家族と認められるように公正証書を作りたいのです」と言うと、証人になるには内容を確認しなければならないから書類を送ってくれと言われた。

この時点でSさんは、僕が同性愛者だとは思っていなかったと思う。

Sさんは恐らく60代半ばから75に近い感じだろうか。正直、こんなお爺さんが僕たちにゲイの人権問題をどう思うのか心配なところもあった。

東京ならまだしも、沖縄県の離島である宮古島のおじいなのだ。ゲイなんて気持ち悪いしそんな証人などなるわけがないと言われても覚悟していた。(僕たちはこんな酷い扱いを今までの人生で何度も想像したり、実際に受けて来たのだと思う)

書類をメールで送り、少しした後にSさんから電話が入った。

「ただしさんがやろうとしていることは素晴らしいことです。今のこの国ではこういう公正証書を作らないとあなたたちのような人たちは誰も財産も守れないしいざという時に酷い目に遭うんです」

「今の自民党政権は頭のおかしいことばかり言って時代に逆行してるんです。こんな国はおかしい。わかりました。私がまず証人になります。そして他にもう一人証人を探してみましょう」

白髪のSさんは、僕たちのことを変だとか気持ち悪がるどころか、完全に僕たちの置かれた状況を理解していて自分の正しいと思うことを行おうという気概に満ちていた。

電話でSさんという白髪のおじいと話しながら、僕の胸は熱くなって自然に涙が滲んでいた。

甥っ子がやって来た。

2週間前に海と散歩している時に電話がなった。

電話は社会人2年目の甥っ子からで、「連休に宮古島に行くことにしたよ!」とのことだった。

甥っ子とはもう4年くらいは会っていないかもしれない。慶應大学の法学部を卒業した後、外国人向けの不動産会社に就職をしたようだ。

キッチンで料理をしていると、突然玄関で声がして、出てみると甥っ子だった。

外で草むしりをしていたKが連れて来てくれたようで、その場でKのことを甥っ子に紹介する。

僕「この人は僕のパートナーのK」

甥「あ、知ってる知ってる。ニイニイのやってること全部知ってるから。応援してるから頑張ってね!」

僕「あ、そうなんだ」

甥「俺、ずっとインターナショナルスクールだったから、全部わかってるからね」

外に出ると、レンタカーの中には他に友人が3人乗っていて、甥が戻ってくるのを待っていた。

軽く挨拶をしたら、後ろから追いかけてきたKが僕に1万円札を握らせた。

「これで何か食べてね」

甥っ子は5分くらい顔を覗かせただけで、楽しそうに海の方に車を走らせて行った。

Kの帰郷。

今日の朝の便でKが大分の実家に帰った。

大分の実家に帰るのはお正月明け以来だから半年ぶりだろうか。思えばあの時に海が怪我をさせられて、予定を半分くらいで切り上げてKは戻って来たのだった。

宮古島→那覇→福岡→大分→実家

朝、9時頃の便に乗ったのに、家に着いたのは夕方だった。

宮古島は直行便がある東京や関西などは本当にすぐに帰れるし行ける気がするけど、意外と九州は時間がかかることがわかった。

これから1週間海と僕の2人だけの生活になるのだけど、早くも僕は寂しくなっている。

あああ、早く帰ってこないかなー。

オスロのゲイバー 銃撃事件。

ノルウェーの首都オスロの広場にある最大のゲイバーが何者かによって銃撃され、2人死亡14人が病院に運ばれた。

犯人はイラン系ノルウェー人ということだけど、LGBTQ+に対するヘイトクライムなのかは不明。

6月25日はオスロでパレードが予定されていたようだけど中止になったとニュースで知った。

そんな事件があったにも関わらず沢山の人々が広場に押しかけ、手には虹色の旗がはためいている。

ニューヨークでは1969年6月28日に、警察官による抑圧と暴力に対して反旗を翻した「ストーンウォール事件」があり、その翌年6月にゲイ解放を訴えるプライドパレードが起こったのだった。

ホモフォビアやトランスフォビアは未だに世界中あちこちに蔓延り、ヘイトクライムは今も繰り返されている。

それでもまた虹色の旗を持ち立ち上がる人々。
僕はそんな彼らの仲間でありたい。

マリフォー国会メーター

大切な参議院選挙の時期になった。

はじめて沖縄で迎える選挙にあたり、候補者の討論会などを探して見てみる。

でも、一番気になることは、その人が「同性婚」に対してどのような姿勢を表しているかということ。

「同性婚」に反対であれば、どんなにいいことを言っていても、候補にはならない。

反対であれば、その反対の理由を聞かせて欲しいものだ。

それはもしかしたら、なんとなく気持ち悪いとか、自分の周りにいないからとか、結婚は男女のものだからとか、様々な理由なのかもしれない。

でも、恐らくその多くが、きちんとした知識がないからだと思う。

「同性婚」が人権問題であることを理解出来れば、反対などという意見にはならないと思うのだ。

僕たちが原告として闘っている「結婚の自由をすべての人に」訴訟は、Marriage for All Japan(マリフォー)という団体が支えている。

そのマリフォーから、「マリフォー国会メーター」が今日立ち上がった。

これを見たら、候補者の「同性婚」に対する姿勢がわかる。

◯マリフォー国会メーターhttps://meter.marriageforall.jp/

大阪訴訟の判決。

僕たちが原告として国と争っている裁判「結婚の自由をすべての人に」訴訟の大阪地裁による判決が今日の14時に言い渡された。

僕もKも今か今かとヤキモキしながらツイッターなどの情報を探し続けたのだけど、請求が棄却された後、全て合憲との判断が下り打ちのめされた。

「同性カップルと異性カップルの享受し得る利益の差異は相当程度解消ないし緩和されつつあることをも踏まえると、現状の差異が憲法14 条1項の許容する立法裁量の範囲を超えたものであるとは直ちには認められない。仮にその差異の程度が小さくないとしても、その差異は、既に述べたように、本件諸規定の下においても、婚姻類似の制度やその他の個別的な立法上の手当てをすることによって更に緩和することも可能であることからすると、国 会に与えられた裁量権に照らし、そのような区別に直ちに合理的な根拠が認められないことにはならない。」

「同性カップルと異性カップルの享受し得る利益の差異は相当程度解消ないし緩和されつつあることをも踏まえると・・・」

え???何?
一体どこで、いつ、何が解消されたの???

この文章を読むと、3年4ヶ月かけて裁判所で原告が証言してきたことを、裁判官は何も聞いていなかったのか、あるいは未だに性的少数者の置かれている状況に関して全く無知なのかと思い愕然とした。

「国民的な議論が尽くされていない」

については、裁判官が司法の責任を取らず言い逃れをしているようにしか思えない。自分たちの役目である司法の判断をせずに、国に丸投げしたということだ。一体なんのための裁判所なのだろうか?

裁判所には、これは一刻を争う「人権問題」であることを認識して欲しい。

僕たちは、打ちのめされても叩きのめされても何度でも立ち上がる。
勝つまで、とことん闘い続ける。
絶対に絶対に絶対に、負けない。

第10回 口頭弁論期日

「結婚の自由をすべての人に」訴訟が始まってから、早いもので3年3ヶ月が経過した。そして今日は、10回目の裁判の期日で、この場所で法廷に立つのも10回なんだと感慨深く思われた。

今日は、結審の日。今日予定されている意見陳述を行ったら、今後もう何も裁判所には申し入れる機会はないということ。

原告の意見陳述は、大江さん→小野さん→西川さん→ただし
の順番で、1人5分という持ち時間の中で陳述が行われた。

僕は今日、老眼のせいか原稿を2行ほどすっ飛ばして読んでしまい、席に戻ってから気づいて酷く後悔したのだけど、弁護人の意見陳述の後にもう一度前に出て抜け落ちた文章を読むことができた。

僕の陳述の中では肝となる2行だったので、最後に読むことができて本当にホッとした。

判決は、11月30日。泣いても笑ってもこの日に僕たちの大切な裁判の判決が下されることになる。

◯原告や弁護士による意見陳述全文はこちらhttps://www.call4.jp/file/pdf/202205/5ce0f86872850ecab10d98e6fb367667.pdf

〈以下は、僕の意見陳述より抜粋〉

僕は今53歳ですが、いつか自分が死んでしまってどこかで神様に会ったら、神様が僕に「あなたは地球でいったい何をやって来たんだね?」と尋ねることを想像することがあります。

今のところ僕の人生は、パッとしない人生のような気がします。でも自信を持って神様に話すことがあるとしたら、パートナーのかつを心から愛したこと。そして、この裁判の原告になったことです。

性的指向や性自認に関わりなく、誰もが結婚できる世の中は、いつかこの国にやってくるのでしょうか?

答えはYES。100%やって来ます。それは、世界を見れば明らかなことです。

でも、実現するのは近い将来なのか、もう少し先なのかはわかりません。そしてその扉を開くことができるのは、ここにお座りの裁判官のみなさんなのです。

僕は物心ついた頃から、好きになる人も興味の対象もずっと男性でした。その頃からいつも思っていたことは、「自分は人間の出来損ないなのだろうか?」 「自分なんか生まれて来なければよかった」ということでした。

そして、そんな気持ちを抱えたまま30年以上、僕は自分のセクシュアリティを人に言うことなく息を殺しながら生きてきました。

自分の好きな人と結婚することができない。パートナーを社会から家族として認めてもらえないことによって、自己肯定感が持てず、自分の将来が思い描けず、長い間僕は自分のことを他の人よりも劣った存在のように感じてきました。

でも、これからの若い人たちには、僕と同じような思いを誰ひとり味わって欲しくないのです。

今、こうしている間にも、学校でいじめを受けているセクシュアルマイノリティの若者が、生命の危険にさらされているかもしれません。会社で偏見の目に晒され、夜も眠れずにもがき苦しんでいる人がいるかもしれません。

これは、一刻を争う人権問題です。

世界の国々では、セクシュアルマイノリティにおける結婚の道は、ことごとく裁判によって開かれて来ました。

その日がこの国に1日でも早く訪れるように。セクシュアリティに関わりなく、誰もが自分の愛する人と結婚できる権利が与えられるように。

どうか今、この時代の日本で生きる裁判官にしか出来ない決断をお願いします。

そしていつか神様に会うことがあったら、この裁判の話を裁判官の口からしていただきたいと思います。

叔母へのカミングアウト。

僕の父方には叔母が1人いる。叔母には子どもがいなくて、現在82歳、10年近く前に叔父を亡くしていて今は独りで横浜で暮らしている。

叔母夫婦は子どもに恵まれなかったため、父はたったひとりの妹である叔母のことを不憫に思い、僕が産まれてしばらくした後に僕を叔母の養子にしようか?という話があったらしい。

それは正式なお願いではなくて会話の中で出たことだと思うけど、その時に僕の母は絶対に養子には出さないと断ったそうだ。

それがあってなのかわからないけど、叔母はどちらかと言うと僕のことを兄よりも可愛がるようなところがあって、庭に小人の人形を置いては、僕だと思いながら見ているということを話していたことがあった。

僕が原宿の学校に通う高校生の頃、1年生の時に停学になってしまい、その頃なぜか僕を心配した叔母が高校の担任に会いに行っていたという話は後から聞いて驚いたのだった。

叔母は少し激情型な性格で、美容院を経営していたのだけど、全身美容なども手がけて仕事では成功を収めた。

高校生や大学生の僕は、時々叔母の元を訪れては、お手伝いをしてお小遣いをもらったりしていた。

そんな叔母が宮古島に遊びに来たいとずっと言っているので、どこかでKのことを話しておかないとと思い、今回の上京を機にカミングアウトをすることにした。

LGBTQに関する本を2冊買い、僕が裁判で意見陳述した原稿をプリントアウトして、話す順番は現地で臨機応変に対応しようと決めて叔母の家に向かった。

叔母は会うなり現在やっているボランティアの話をし始めて、その後自分の旦那さんやおばあちゃんの話、そして僕の父が亡くなって行った時の話をし続けた。

どれも何度も聞かされている話だけれども、叔母にとってはそれらが世界を形作っているものだと思いながら聞いていた。

すると叔母は、「ただしちゃん、子どもの頃ただしちゃんがおうちで聴いていた曲覚えてるよ。確かCDがあるから聴いてみようか?」

そういうと叔母は棚の中からオフコースのアルバムを探し出してスイッチを押した。

「ただしちゃんが中学生の頃かな?好きで聴いていたのを覚えていて、これを買って聴きながらただしちゃんはいったい何を考えているんだろうって思ってたの…」

僕は全然覚えていなかったのだけど、オフコースを小学生から中学生にかけて聴いていたのを思い出した。

それから僕は大切な話をはじめた。

「ずっと母にも父にも兄にも叔母さんにも言わずにいたことを今日話そうと思って来たんだ…

僕はね、子どもの頃から女の人を好きになることがなくて、自分は病気なんじゃないか?変態なんじゃないか?と思いながら、もしかしたらいつか治るかもしれないと思ってたんだ。

高校生の頃は彼女を作ってなんとか女性を好きになれるんじゃないかと努力したんだけど、結局変わることは出来なかったんだ…その後も大学も会社に入ってから何十年間も周りの人には秘密にして過ごして来たんだ…

自分の性的指向を周りに言ったら、自分はもう父にも母にも叔母さんにも愛されなくなるんじゃないかと思いながら今まで言えずに生きてきたの」

結局僕は、小さな頃からの自分の話を淡々とした。

話しながら涙が出てきて、ふと見ると叔母も泣いていた。

「ただしちゃん、話してくれてありがとう。おばちゃんは絶対にただしちゃんを嫌いになることはないからね。それよりももっと早く話してくれたらよかったのに…」

それから大切なKの写真を見せながらKの話、そして今行われている裁判の話を丁寧にした。

結局、僕が悶々と眠れずに思い描いていた最悪の事態は起こらなかった。

叔母は僕のセクシュアリティを聞いて、叔母なりに受け止めてくれているようだった。

もちろん、僕が帰った後で、叔母のLGBTQに関する疑問や嫌悪や悶々とした気持ちは湧き上がって来るだろう。

でも、僕は叔母に正直に話すことによって長年の罪悪感から解放された。

そして何よりも、大切なパートナーのKをちゃんと紹介出来ると思って安堵したのだった。

5月30日の裁判に向けて。

5月30日の裁判に向けて、意見陳述をすることになったことはここに書いた。

今日はその意見陳述のための2回目の打ち合わせがオンラインで行われた。

裁判も大詰めになり、僕たちが言いたいことを言えるのはこれが最後となるため、裁判官にいったい何を伝えるのか、原告それぞれが頭を捻り、アイデアを持ち寄った。

今回は4人の原告が一人5分ずつ順番に意見陳述をする予定。

地方裁判所での判決はとても重要なので、札幌のような感動的な判決が出ることを期待したいところだけど、裁判官にとって国の考えに反くことはそう簡単なことではないだろうとも思う。

でも裁判官にはどうか、保身に走らずに、正義を貫いて欲しいと思うのだ。