「結婚の自由をすべての人に」訴訟第6回期日。

コロナの影響で延期されていた裁判が東京地裁で行われた。

前回、裁判官と僕達原告や弁護団が言い合いになり、揉めに揉めたことはここに書いた。

本人尋問を必要としない裁判官に対して、尋問をして欲しいと我々が食い下がったのだ。

今回の裁判では、予め国側から書面が届いていて、その中に、尋問がある場合、反対尋問をする可能性は排除しないと書かれていたこともあり、本人尋問をやる可能性が出て来たのでこちらとしてはここで尋問に対して小競り合いをせずに行くことにしていた。

今回の一番の目玉は、永野弁護士による代理人意見陳述だった。この意見陳述を聞きながら、涙が流れた。ぜひ全文をお読みいただきたい。(以下、全文)

さる2021年1月18日、原告の佐藤郁夫さんが逝去されました。
佐藤さんは、同月4日に脳出血で倒れて入院されていましたが、回復かなわず、同じく原告であるパートナーのよしさんと妹さんらが見守る中、息を引き取られました。享年61歳でした。

佐藤さんは1959年生まれです。佐藤さんが自らの性的指向が同性愛であると気づいた1970年代は、同性愛は全くもって異常、変態とされていた時代です。
テレビでは同性愛者をホモ、オカマと笑っていました。
学校の教師も同性愛を嘲笑していました。
広辞苑には同性愛は異常性欲と書いてありました(甲A25の1)。
精神医学の教科書には同性愛は病気であると書いてありました(甲A338)。
そんな時代の中で、佐藤さんは、自分がゲイであることは誰にも言えないと思うようになったといいます。

しかし、そんな時代の中にあっても、佐藤さんはわずかな情報を頼りに、他の同性愛者との出会いを求め、行動しました。交際相手も見つけました。一人の同性愛者としての人生を歩み始めたのです。
ただ、佐藤さんは自分がゲイであるということを隠しているのを苦しいと感じていました。本来の自分ではない生き方をするのは窮屈だ、そう感じた佐藤さんは、30代の頃、会社の朝礼で自分がゲイであることを思い切って話します。そして、その後の佐藤さんは、ゲイであることをオープンにして生きていくようになっていきました。

同性愛者が差別や偏見に抗して、自らの性的指向を明らかにすること。このカミングアウトという実践は、1970年代後半頃から始まった日本の同性愛者権利擁護運動の中で語られるようになっていたものです。しかし、当時の佐藤さんは、運動との接点があったわけではありません。佐藤さんのカミングアウトは、佐藤さんが自ら考え、選択した行動です。なぜ佐藤さんがカミングアウトという選択をしたのか、その理由について佐藤さん自らのお話しをうかがうことは最早できません。ただ、手がかりはあります。

カミングアウトしたいと考えるセクシュアルマイノリティを撮影し、そのポートレートをウエブサイト上に掲載する「OUT IN JAPAN」というプロジェクトで、佐藤さんはこう語っています。

セクシュアリティに関係なく、生きていることが尊い。
カミングアウトすることが素敵なのではなく、
自分らしく生きることが素敵なのだと思う。
もしも身近な人が理解してくれなくても、
必ず理解してくれる人は見つかるから。
自分らしく生きて欲しい。

佐藤さんは自分らしく生きていきたいと考え、実践してこられました。そして、自らがゲイであるということは、自分らしい人生を生きていく上でその根幹に位置している、そうお考えであったのでしょう。
自らの性のあり方が尊重されることは、人格的生存に不可欠の利益です。佐藤さんは、法律を学ばなくとも、そんな憲法の理念を自らつかみ取って生きてこられたのだ、そう思います。

佐藤さんは、第1回口頭弁論期日において意見陳述を行いましたが、この裁判に原告として参加した理由についてこう述べています。

「同性同士の婚姻が認められることは、私が若いころに持っていた、自分自身に対する否定的な気持ちを、これからの世代の人たちが感じなくてもよい社会にすることなのです。」

また、佐藤さんは、佐藤さんとよしさんが地元の区役所に婚姻届を提出したときに、区役所職員が、婚姻届は不受理になると思うが、結婚記念カードを発行することができるという言葉をかけてくれたというエピソードに触れて、こう述べています。

「まるで結婚が認められたような気持ちになり、とても幸せを感じました」
「いつか本当に婚姻届が受理されたら、きっと感動して泣いてしまうだろうと思います」

冒頭で述べたとおり、かつて同性愛は、異常、変態とされ、同性愛者はその存在を否定されてきました。そして、若い頃の佐藤さんがそうであったように、同性愛者自身が社会が付与する負のレッテルを内面化し、自分の性のあり方に否定的な感情を抱いてきました。
そんな同性愛者にとって必要なのは、社会からの肯定であり、承認です。佐藤さんが結婚記念カードにすら幸せを感じたのは、ささやかとはいえ、社会からの祝福と承認の契機がそこにあるからでしょう。そして、社会的承認の象徴とも言えるのが同性同士の婚姻の法制化です。佐藤さんが、同性婚の法制化は「私が若いころに持っていた、自分自身に対する否定的な気持ちを、これからの世代の人たちが感じなくてもよい社会にする」ことにつながるとおっしゃっているのは、そのような趣旨であると考えます。

もちろん何らの法的効果もない結婚記念カードだけでは問題は解決しません。
現に、今回の佐藤さんの入院先で、よしさんが勇気を持ってパートナーであると告げたにもかかわらず、医師は「親族でなければダメだ」と目の前にいるよしさんへの病状の説明を拒否し、別室から佐藤さんの妹に電話をかけました。佐藤さんの入院先はHIV診療の拠点病院であり、多数のゲイ当事者を受けいれている病院です。その病院ですら、愛するパートナーの病状の説明を受けることもできない、こんな理不尽なことがくり返されているのです。もはや医師の善意に頼ることはできません。法制度が必要なのです。

敗戦後の現行民法の起草の議論において、同性パートナーの法的保護は議論の俎上にも登りませんでした。それは、異性愛を「自然」「正常」とし、同性愛を「不自然」「異常」とする異性愛規範が社会を支配しており、民法の起草者たちが同性愛について誤った認識を持っていたからです。
しかし、そもそも憲法13条は「すべて国民は個人として尊重される」と定めており、国家に対し、それぞれの個人のそれぞれのあり方や生き方をそれ自体価値のあるものとして尊重することを求めています。その中には、それぞれの個人の多様な性のあり方や、それに基づく生き方の尊重も含まれます。そして、それぞれの個人の性のあり方に基づく人生の重要な選択に、性愛に基づく人格的結合関係を形成し、婚姻するという選択があります。そうであるからこそ、異性間であれ同性間であれ、憲法24条1項はすべての個人に婚姻をする権利を保障しているのです。異性愛規範に囚われていた現行民法の起草者たちは、このことに気づくことはできませんでした。
今日においては、異性愛であれ、同性愛を含むそれ以外の性愛であれ、それぞれの個人に多様な性のあり方があるという認識が社会的に獲得され、異性愛規範はその正当性を失っています。このような社会的認識は、自然に獲得されたわけではありません。佐藤さんをはじめとする多くの無名の同性愛者たち、そして、この日本の社会に憲法の理念を実現しようとする心ある人たちの地道な取組によって獲得されたものです。

佐藤さんは、この裁判の審理において、法廷でこう述べられました。

「私はHIV以外にも病気を抱えており、寿命はあと10年あるかどうかだろうと覚悟しています。 死ぬまでの間に、パートナーと法律的にきちんと結婚し、本当の意味での夫夫(ふうふ)になれれば、これに過ぎる喜びはありません。天国に逝くのは私の方が先だろうと思っていますが、最期の時は、お互いに夫夫となったパートナーの手を握って、『ありがとう。幸せだった。』と感謝をして天国に向かいたいのです。」

残念ながら、佐藤さんのこの願いは叶いませんでした。愛する人と結婚したい、そんな当たり前の願いが、実現できなかったのです。憲法はそれを許すのでしょうか。佐藤さんはそう問うています。
私たちは、本件審理に関わるすべての関係者が、この佐藤さんの無念の思いと問いかけを一時も忘れることなく、個人の尊重を謳う憲法の理念に深く思いを致し、自らの良心に従って、本事件に向き合っていくことを切に願うものです。

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