立憲民主党と社民党でお話しをしました。


立憲民主党と社民党の政治家と、今回の訴訟について原告と弁護士がお話をする会が設けられた。

立憲民主党は、枝野さん、福山さん、辻本さん、西村さん、尾辻さん。社民党は、福島さん。原告は、僕と西川さんのふたり。西川さんは、共産党と立憲民主党。僕は立憲民主党と社民党。

もともと協力的な野党に話をしても、国の法律は変わらないとは思うのだけど、国会で話題に出るだけで、国民の関心も寄せられるかと思う。いつかは与党とお話しをしたいと思っているのだけど、今のところそれがなかなか難しいのだ。

僕の話の趣旨は、この訴訟は、『同性婚好き嫌いの問題』ではなく、『人権の問題』であるということ。地道に正確な知識を啓発することで、次のステップに繋がっていくことを願っている。

<以下は、スピーチの内容>

『結婚の自由をすべての人に訴訟:原告としてお伝えしたいこと』
2020/03/05 ただし

●自己紹介。
原告のただしです。
私は51歳で、16歳下のかつというパートナーがいます。
九州出身のかつは、私と一緒に暮らすために医療の仕事を辞めて東京に出てきました。

私たちの暮らしは、かつが洗濯や掃除をして私がごはんを作り、ふたりで一緒に朝ごはんを食べます。そして、毎朝手を振りながら私がかつを見送ります。早めに私が帰れる日は、私がごはんを作り、今日あった出来事を話しながらふたりで一緒に晩ごはんを食べます。

●母へのカミングアウト。
かつと訴訟に出ることを決めた後に、母とランチをしながら母にはじめて自分の口からカミングアウトをしました。

母の瞳には落胆の色が見え、自分を責めているようにも感じました。私がその時に、何よりもつらく悲しかったことは、母が私のことを、「かわいそうな子」「他の子より劣っている子」と思っているように感じたことでした。

でも、最後に思い知ったのは、ゲイであることを蔑んだり恥ずかしいと思っているのは、母ではなく自分だったということでした。

●幼少時代。
私は物心ついた頃から、好きになる人も興味の対象も、ずっと男性でした。そしてこのことは絶対に父や母や周りの人には知られないようにと幼心に決めて生きてきました。なぜなら、友達にいじめられたくなかったし、なによりも、自分の愛する父や母に、自分のことを嫌いになって欲しくなかったからです。

中学校でも高校でも、自分は病気なのではないか?いつかは女の子を好きになることができるのではないか?と死に物狂いでいろいろ試したのですが、結局それは変えることは出来ませんでした。

なぜならば、性的指向は病気ではなく、自らの意志や努力、他者の力によっても変えることのできないものだったのです。

学生の頃からいつも思っていたことは、自分は兄のように結婚はできないし、子どもも持つことはできない。このままずっと、生涯死ぬまでひとりで生きていかなければならないということでした。

●なぜ原告になったのか。
私がなぜ原告になったのかをお話ししますと、50歳の私には、国を相手に裁判で争うことよりも、このままかつとふたりでどこか海の見える田舎町でひっそりと生きていく方が楽だと思っていました。

でもある日、もしも私が物心ついた時から、男性同士が結婚できたのなら人生はどうだっただろう・・・?と想像してみたのです。

家族や親戚、会社の先輩や後輩、中学や高校の友人たち、みんなから笑って祝福される結婚式があっただろうし、ふたりで相談しながらマイホームを買う夢だってあっただろうし、もしかしたら子どもを持つことだってできたかもしれません。

そんな、男女のカップルであれば当たり前のことを、私たちは予め自分の人生にはないものとして生きてきたのです。

そう思ったら、これからの若い世代の人たちにとって、誰もが好きな人と結婚できるという当たり前の選択肢が、はじめからある社会であって欲しいと思いました。

●結婚によって叶うこと。
昨年から私の会社でも、同性パートナーとしての届け出が認められるようになり、結婚休暇、服喪休暇、家族看護休暇、育児休暇、介護休暇などが取れるようになりました。

しかし、万が一私が倒れてしまっても、かつは病院で医師と私の治療法を話し合うことはできないでしょう。16歳年上の私が先に亡くなったとしても、かつに遺産を遺してあげることもできません。

そんなことを想像するたびに、いつも自分たちが『二流市民』のように扱われているように感じています。

アメリカでは、結婚することによって得られる社会保障は、1500以上あるようですし、日本でも同じようにあるのだと思います。でも私たちは、そんな保証など何一つないものとして生きていかなければならないのです。

●同性で結婚ができないことは、『人権問題』。
今日、このお話を聞いてくださっている方の中には、もしかしたら正直、「同性愛なんて周りにいないし、気持ち悪い」と思っていらっしゃる方もいるかもしれません。ですが、どうか考えていただきたいのは、これは好き嫌いの問題ではなくて『人権』の問題だということです。

現在の日本では、同性愛の若者は、自己肯定感が得られず、いじめや差別を恐れて自傷行為や自殺を選ぶ人が、異性愛の若者に比べて約6倍も多いという報告があります。

これは、私たちの国が同性同士の結婚を認めていない。同性を好きな人たちを、劣った存在のように扱っていることが、直接原因として結びついているように思われます。

『世界がもし100人の村だったら』という本の中には、100人の村の中で11人が同性愛者であると書かれているのですが、同性を好きになる人は、この国でもあなたのすぐそばに必ずいます。

もしも、周りにいないと感じているならば、彼らがいじめや差別を恐れて、息を潜めて暮しているからです。

肌の白い人や黒い人、背の高い人や低い人がいるように、性的指向は、無理やり変えることのできないその人の属性であり個性の一つです。

その人の変えることの出来ない属性によって、いじめや差別を受ける。若者が命を落とす。その人の変えることの出来ない属性によって、自分の好きな人と結婚することができない。平等の権利が与えられない。他の人よりも劣った人間のように扱われる。

そういう時代はもう、私たちの世代で終わりにしたいのです。

●結婚は誰にでも平等の権利。
そもそも結婚とは、誰かに許しをもらうものでしょうか?
この国には、結婚ができる人と、結婚が許されない二流市民がいるのでしょうか?
好きな人と結婚ができるということは、人間として誰もが平等に持てる権利ではないでしょうか。

その人がたとえ同性を好きになろうとも、異性を好きになろうとも、誰もが等しく好きな人と結婚できる。そういう社会になれば、これから先の若い人も、自分自身をきちんと肯定することができるし、いじめや差別も少しずつ減っていくと思います。何よりも人生をもっと自由に大きく思い描くことができると思うのです。

そのためにもどうか、先生方のお力をお貸しください。

今日は誠に、ありがとうございました。

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