顔たち、ところどころ

ヌーヴェル・バーグを代表する映画監督アニエス・ヴァルダと、ビルや壁に巨大な人間の写真を貼るアーティストJRによるロードムービーのようなドキュメンタリー映画は、観ている僕たちもほっこりと暖かくなるようなかわいい映画だった。
ふたりは出会い、ドキュメンタリー映画を共作することを決めるのだけど、JRのトラックに乗りながら、思いつきのままフランスの田舎町を旅してゆく。
87歳のアニエスは、時々昔の友人たちを懐かしんだり、旧友の墓地を訪れて作品にしたり、33歳のJRは、決して人前でサングラスを外さず、自分の狙いの写真を撮影してゆく。
はっきり言って、ふたりのやりたいことは噛み合っていない。それは、ふたりのアーティストの惹かれるもの、やりたいこと、作りたい作品が全く違うから。
33歳のJRが、いつも87歳のアニエスを気遣いながら旅を続けている様は、おばあさんと孫のようでもあり、見ていて飽きない。
アニエス・ヴァルダが、年老いても尚、女性たちのために戦っている姿勢を保ち続けていることが凄いと思う。
この作品を見ながら、さもない町のカフェで働く女性や、毎日一人で畠を耕してているおじさんや、港町で夫を支える女性たちが、それぞれにストーリーがあってなんて魅力的な人間なのだろう…と思えてくる。
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プラナカン・スタイル。

ブルーマンション

ブルーマンションの中庭

ピナン・プラナカン・マンション

ペナンに行ったら絶対に見ておきたい建物を2つあげておきますね。
⭐️ブルーマンション
通称ブルーマンションと呼ばれている真っ青な邸宅は、19世紀末に7年かけて作られた建物で、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画『インドシナ』の撮影に使われたことでも有名。
現在はホテル兼レストランとして使用されていて、1日3回だけ英語と中国語のツアーがあり内部を観察することができる。ペナンに行ったら、この『ブルーマンション』は絶対訪れたい建物で、東洋のロックフェラーと呼ばれた客家系中国人チョン・ファッ・ツィーが、7番目の奥さんのために作ったもの。
伝統的な華南スタイルの建物でありながら、細部には西洋の装飾が施されている。その立地から構造や内装にいたるまで、徹底的に風水にこだわり作り上げられたという。
建物の外壁や建物内の中庭や階段、壁や調度品、どんな細部に目を向けても美しい文化の融合が感じられる。
⭐️ピナン・プラナカン・マンション
広東出身の客家系中国人チュン・ケン・キーの屋敷は、現在は美術館として開放されている。エメラルドグリーンの建物は中国様式、それに西洋風の装飾的要素を取り入れたプラナカンスタイル。
家具や食器類、当時の贅を尽くした美しい刺繍の入った衣類など、プラナカンのスタイルをとてもわかりやすく観ることができる。

土砂降りの雨の日に。

今日は仕事であっちこっちに行っていて、会議もいくつか入っていたので遅くなりそうだった。
晩ご飯は手抜き料理にしようと、出汁を仕込み、お米を研ぎ炊くだけにし、切った玉ねぎを出汁に入れ牛丼を煮るだけにしておいた。
LINEのやりとりで、Kが先に家に帰り、ガスに火をつけてご飯を炊き、出汁を引いて晩ご飯の支度をしてくれているようだった。
八丁堀で仕事が終わった時には雨が降り出していた。途中、四谷を通った時には雨はほとんど止んでいるようだったのだ。
そこでKからLINEが入った。
「傘持っていこうか?」
「大丈夫だよ。小降りだろうから走って帰るよ」
「はーい」
駅に着いて、僕は小走りに改札を抜けて外に出ると、土砂降りの雨だった。スマホにはいくつかメールの着信が来ていたが帰りを急ぎ土砂降りの中走ってみた。
あまりの雨にずぶ濡れになりセブンイレブンに入りビニ傘を買って外に出た。
少し歩くと、向こうからハーパンのKが傘を差しながら傘を1本持って歩いてくるのが見えた。
土砂降りの雨の中、駅まで傘を持って迎えに来てくれたのだ。(見なかったスマホにはKから迎えにいくというメッセージが来ていたようだ)
土砂降りの雨の中ふたりで歩いていると、向こうから奥さんが傘を持ち駅に向かって歩いて来た。きっと旦那さんがお子さんを迎えに行くのだろう。
「Kちゃんと一緒だね」
「うん」
家に帰ってずぶ濡れの洋服を脱ぎ、すぐに温めてあったご飯をふたりで食べた。
ふたりで食べるご飯はおいしくて、家中がやさしさに包まれていた。

ニョニャ料理。

Penang Char Koay Teow

ラクサ

チキンカレー

主に中国の福建省から渡って来た男性と、イスラム教ではない現地の女性が結ばれることによって、長い時間をかけて独自の文化(プラナカン)を作り上げて来たということは、前回のプラナカン文化の時に触れた。
そのプラナカン文化の中で欠かすことの出来ないものが『ニョニャ料理』と呼ばれるものだ。ニョニャとは、女性を表す言葉でもあるようで、食事は女性が作るものとされていたそうだ。
ペナンの友人に連れられて、彼らが美味しいと思うニョニャ料理をいくつか食べに行った中で、とても美味しかったものをここに書いておこう。
⭐️Penang Char Koay Teow
ライスヌードルを炒めたもので、具材は海老、赤貝、鶏皮、ニラ、もやし。タイのパッタイのように甘くはなく、辛みがあるが奥深い味わいがある。これは赤貝などが入っているためで、人によってはこの赤貝を生で入れろとオーダーする。ペナンで食べた中では、一番美味しかった麺。
⭐️ラクサ
オーストラリアでも、タイでも、ベトナムでも、シンガポールでも食べられるほど有名な東南アジアの麺料理だけど、ラクサ自体はペナン出身の料理だそうだ。他で食べるよりも甘みがなく、酸味が仄かに感じられて魚介の旨味が効いていて美味しかった。
⭐️チキンカレー
インド人街があるくらいインド系の人が多いので、ニョニャ料理にもインド系カレーが普通に置いてあり、どこで食べてもとても美味しかった。
⭐️牡蠣入り卵焼き
台湾にも同じようなものがあるのだけど、よりスパイシーでこれはこれで美味しかった。

町のいたるところにあるアート。

インスタ映えする壁画が町中にある

どこを切り取ってもアートだ。

不思議な調和。

ペナンの町中を歩いていると、いたるところでアートに出会う。
有名なものは壁画で、これは、町中の壁面に様々な絵画や落書きが描かれていたり、立体物がついていたりする。
前回ここにも書いたプラナカン文化は町の中にも溢れていて、何気ない風景の中に様々な文化が混じることによって生まれた独特の調和を見ることが出来る。
英国の影響を受けた構造に中国の緻密な装飾、そこにマレーの混沌が混じり合い、個性的な建築が目につく。
それぞれの建物がまるで好き勝手な色を塗られていて、それがまた不思議な世界観を演出している。
一本のメインストリートの中に、中国系の仏教の寺院、イスラムのムスク、インドのヒンズーのお寺、キリスト教の教会などがある。
様々な違った文化がミックスしている環境で育つことは、自分とはまるで違う他者の存在を認めるという考えが初めから培われるに違いない。

新居でのパーティー。

結婚式の写真

シンガポールに住むJ&Lカップルは、その昔、香港で出会った。彼らは出会った時に確信したそうだ。
「これは僕のソウルメイトだ」と。
「ただし?ソウルメイトの意味、わかるか?」と彼らからは何度か聞かれたことがある。
Lはその昔、女性と結婚していたというのだから驚きなのだけど、別れた奥さんやその子どもが何人かいて、ご両親もいて、更に孫まで何人かいるような大家族なのだけど、JとLはそのままつきあいはじめ、家族にも少しずつカミングアウトをし、家族中に認められていったのだった。
実際には、Lの家族ははじめから理解が早かったようだけど、Jの家族は保守的で、認められるまでに時間がかかっているようだ。
そんなふたりはやがて、家族や友人たちを招いて結婚式をあげた。そしてその何年後かに、念願だったLの育ったペナンに新しい家を買い、完成してハウスウォーミングパーティーを開いたのだった。
一等地に立つコンドミニアム(日本では高級マンション)にタクシーで降り立つと、巨大な高層マンションが2棟くらいあり、どちらなのかその何階なのか聞いていなかったな・・・と思い、守衛に彼らの名前を告げると、黙ってそのままエレベーターまで案内された。
エレベーターが上がって行き、守衛が押したボタンの階が開くと、ドアなどはなくそのまま彼らの家の玄関を開けた状態になっていたのだ。
「何これ?全部彼らの家なの?」
中に入るとすでにゲストが到着していて、キッチンではこの日お願いしたシェフが料理を作っていて、シャンパンやフィンガーフードをサービスする人たちが何人もいた。
リビングだけでも100平米はあるだろうか?リビングはそのまま外までつながっていて外にもソファやジャグジーもあり、遠く真っ青な海が広がっている。
寝室も80平米くらいあるだろうか?眺めもよく、いつまでも海を見ていたい感じ。トイレやシャワー、浴槽は別の部屋にあって海が見渡せて、今まで僕が泊まったどんなホテルよりも豪華で広かった。
とても広い客室が他に2つあって、それぞれトイレとシャワーがついていて、ホテルの一部屋分以上50平米くらいあるだろうか。
Lの仕事もあり、世界中を旅行している彼らは、間もなくリタイアするのだろう。
バリ島に豪華なヴィラもあるし、シンガポールには相変わらず高層マンションがあるのだけど、彼らは家として故郷のペナンを選んだのは、やっぱり彼ららしいと思う。
ふたりはいつも、揺らぐことにない愛情に包まれていて、ひとつひとつ夢を叶えていく。
こんな風に人生を生きている友人たちがいることを、誇らしく思うような一日だった。

ペナンのゲイバーへ。

まさかペナンにゲイバーがあるなんて思わなかった。だって、先日もマレーシアではレズビアンカップルが公開鞭打ちの刑に会っていたではないか。
イスラム教の国では同性愛が罪になる国が多く、マレーシアでも県によって法律が違うようなのだ。ペナンに関しては中国系移民が多いため、同性愛が見つかったとしてもそんなことにはならないらしい。
ペナン在住の友人について歩いてゆくと、ホテルのすぐそばに何やら古い建物があった。その店のドアについているボタンにパスワードを入れたらドアが開き、中には驚くような不思議なゲイバー空間が広がっていた。
壁には男性ヌードの油彩画が飾られていて、ギターを弾きながら歌を生で歌っている人がいる。
吹き抜けの天井があり二階はソファがいくつも置かれてラウンジになっている。その壁のいたるところに、ゲイアートならではの作品が飾ってある。
黒人のドラァグクイーンが出てきて素晴らしい歌を披露したり、マレー系、インド系、中国系、アジア人、白人、様々な人種が混じり合い楽しそうに飲みながら話している。
こんな秘密基地なような素敵なゲイバーがペナンにあるなんて、本当に驚き、感動したのだ。
パスワードを押して入る隠微な世界。ペナンのゲイバーには、国境や時代を越えた自由な空気が広がっていた。
⭐︎69https://m.facebook.com/9221cafe/

食事会。

夜は、僕たちの宿泊しているホテル『seven terraces』のレストランでパーティーが行われた。
集まったのは、シンガポールのJ &Lゲイカップルの友人たちで、40人くらい。28人は海外からこのパーティーのためにやってきたと言うのだからすごい人脈だなあと感心してしまう。
僕のテーブルには、J &Lカップルに、イタリアと台湾のカップル、香港の男女のストレートカップル、ニューヨークからのゲイ、香港からのゲイ、日本からの僕たち。
シンガポールから運ばれた美味しいワインとこの地方ならではのニョニャ料理をいただいた。食事の後半からは、みんなどんどん席を立って、知らない人のそばに歩み寄り会話が広がっていく。
友人の友人というだけで、親しみが増し、皆和やかにつながっていく。こんな風に世界中の人と楽しい食事が出来るのも、彼らの人柄のなせる技だろう。
⭐︎KEBAYA DINNING ROOMhttp://kebaya.com.my/

ペナンへ。プラナカンスタイル。

フロント

中庭

部屋

夜21:40のフライトでクアラルンプールへ飛び、マレーシアの小さな島ペナンに着いたのは、朝の9時を過ぎた頃だった。
シンガポールに住むゲイの友人カップルが、ペナンに自宅を作ったので友人たちを呼んでハウスウォーミングパーティーをしたいというので、その誘いに誘われて二つ返事で遥々ペナンまでやって来た。
「フライトが取れたら、こちらでの滞在はすべて僕たちが持つからね」
ペナンの空港に降り立つと、彼らが手配してくれたようで、僕たちの名前を書いたボードをマッチョなマレー系の色黒のお兄さんが持っていた。
彼に運転してもらいホテルに入ると、それはいままでの人生で見たことのない、いくつかの文化が合わさって別の文化になった文様とデザインが出迎えた。
15〜16世紀に中国の主に福建省からマレー半島へ渡った中国人男性と、地元女性(イスラム系でない)との間に生まれた子孫を『プラナカン』と呼ぶらしい。
元々は国際貿易港マラッカに居を構えていたが、英国の植民地化に伴いペナンやシンガポールに多くが移住した。
プラナカンは植民地政府と良好な関係を結び、ヨーロッパとの交易を通じて巨万の富を築き、衣食住全般に渡り贅を尽くし繊細で独特な『プラナカンスタイル』を作り上げた。
西洋と東洋の文化の複雑な融合は、他の国では見たことのない不思議な色彩や文様、スタイルに感じられる。
広々とした洋館の敷地内に18室ある部屋はすべてスイートで、館や部屋の随所に『プラナカンスタイル』が取り入れられているホテル『seven terraces』は、異国情緒たっぷりで僕たちを迎えてくれた。
⭐︎seven terraceshttps://www.seventerraces.com

たいせつな人の傷。

成田エクスプレスを降りる時に、棚の下段に置いた重たい方の僕のオレンジのトランクをKが持って来てくれるだろうと、僕はKの少し軽い紺のトランクを中段から取って先に電車を降りた。
少しして降りる人の後からKが降りて来た。
エスカレーターに向かって歩いていたら、突然Kが叫んだ。
「ただしくん、手が切れたみたい」
見ると、Kの右手の甲が、荷物を取り出す時にトランクの上の金属に擦ったようで、縦に皮膚が剥がれ出血していた。
成田空港で薬局を探して絆創膏を買い、トイレで血を洗い流してKの手に絆創膏を貼りながら思った。
「僕の手だったらよかったのに・・・」
金属に擦られて手が切れたとしても、僕のゴツゴツした手ならば、傷ついていても大して目立たない。それに比べてKの手は、手タレなように綺麗な手なので、傷を見るたびに後悔している。
「僕がオレンジのトランクを取ればよかった」と。
自分のたいせつな人が傷つくのならば、自分が傷ついた方がよいと思う。
父や母も、僕たちを育てながら、そんなことを何度も思ったに違いない。