ワクワクする家を探して。

今住んでいるマンションが建て替えるために、半年後までに引越しをしなくてはいけなくなり、やっと気持ちを切り替えて新居を探すことになったことを先日ここに書いた。
住み慣れた外苑前近辺を中心に場所を絞り、様々な間取り図を眺めて検討し、一歩進んで実際に内見に行くと、よりリアルにその家での暮らしを思い描くことが出来る。
限りなくお金があれば、家に関する多くの願望は叶うのかもしれないけれども、限られた予算で自分に合った家を探すということは、どこかパズルを組み合わせるようなものであってとても面白い。
それは、『何を選択して、何を捨てるか』が問われるからだ。家を探すことは、実は、自分の生き方を探すようなことだったのだ。
駅までの道は、気持ちのいい道であるか、
帰りに寄り道がしたくなる町か
犬と暮らすか
料理をする時に、客人の顔を見ながらできるか
朝日を浴びながら、植物の世話をできるか
夕陽を見ながら、ワインを飲めるか
窓の外の樹々を見ながら季節を感じられるか
外苑の銀杏並木の見える部屋は、とても気持ちのいい部屋で、しばらくそこで暮らすことを想像した。
銀杏の紅葉も見られるし、芽吹きも美しいだろうと。朝早くぎんなんを拾いに行ってもいい…
千駄ヶ谷の家は、L字型の大きなバルコニーで、そこでいくつものオールドローズを育てている自分を想像してみた。
部屋も2つあるので、Kは1つを自分の基地にすると言って騒ぎ出した…。
それはまるで、『エアー暮らし』でしかないのだけど、今とは違った毎日を想像することは、新鮮でワクワクするものだった。
今まで住んでいた家が当たり前だと思ってなかなか気がつかなかったのだけど、人はきっと、いつだって、違った場所で生きることを選択することが出来るのだ。

台湾プライドに向けて。

一週間後の土曜日は、アジア最大の台湾プライドの日。
ここ毎年6年くらいは続けてこの時期に台湾を訪れていたのだけど、今年は東京で過ごしているような気がしている…
(というのも、今でもまだ、行きたいなぁ、行けないよなぁ、という思いが波のように交互に押し寄せているのです)
これもここ3年くらいやらせていただいていることなのだけど、東京からいく東京レインボープライドの仲間たちや、現地の台湾人の人たちが笑顔でパレードの時に着てくれるようにと、日台友好のシンボルとしてTシャツをデザインさせていただいている。
散々迷った挙句デザインを決めて、時間がなかったので慌てて入稿したのだけど、夜中になんだか眠れずに、何度も何度もデザインを眺めては、何かが自分としてもしっくり来なくて、そのまま眠れずに朝になり、早朝会社でデザイナーと新しいデザインのデータを作り直し、入稿をし直した。
台湾の人たちがこのTシャツを見た時に、ハッと何かに気づくその姿を見たいと思う。
本当は台北に行って、このTシャツを着て、日本の仲間たちや、台湾の人々とみんなで一緒になって歩きたいのだ。
Happy Pride!

ニューヨークで暮らすアジア人。

ニューヨークからDがやって来た。
Dは、中華系アメリカ人。30歳くらいだろうか。スタンフォードを出た後、日本に来て4年間くらい暮らし、その後台北に1年間くらい語学を学びにいき、ご両親の住むニューヨークに戻った。
Dは、ニューヨークでゲイのアジア人の団体の代表もやっている。この夏ニューヨークに行った時も、PRIDE前の彼らの団体のパーティーがあり顔を出したのだけど、久しぶりの来日でゆっくりふたりでランチをすることが出来た。
僕「なんでゲイのアジア人の団体に関わっているの?」
  
D「サンフランシスコと違って、ニューヨークではまだまだアジア人はマイノリティなんですよ」
僕「確かにそう思うけど、Dはニューヨークで育ったのに、何か思うところあったのかな?」
D「ずっと東京にいて、台湾で暮らして帰って来たら、白人たちに差別されるようなことがあることに改めて敏感になったんだよね・・・
いつか、バーにアジア人の友達6人くらいで遊びに行ったんだけど、そこにいたカップルの女がいきなり僕たちを見るなり、Asians・・・って声に出して顔をしかめたんだよ・・・
そこで僕はすかさず、Excuse YOU? って言ったんだ。
そしたら、なんでこんなことをこの男に言われなきゃいけないんだろう???みたいな顔したから、
Fuck off! って言ってやったんだ。
この手のことは、しょっちゅうあって、僕はもう、黙って見過ごすことが出来なくなってきたんだよね」
そんな話を聞きながら、アジア人がニューヨークで暮らすことの大変さを想像した。
僕は今までに旅行でも、仕事でも、様々な国に行ったことがあるのだけど、西欧の社会では、やはりそこかしこに、未だにアジア人に対する蔑視は確かに残っていると感じることがある。
D「実際にアジア人は、バーやクラブでもまったくモテないし、相手にもされないんだよね。一部のライスクイーンを除いては(ライスクイーンとは、アジア人を専門に好きな西欧人のこと)。それどころか、アジア人は、ペニスが小指くらいしかないとか、みんな女々しいとか、とにかく性の対象にはまったくなっていないんだよ・・・。そんな何もかもが許せなくて・・・」
そんな話を聞きながら、頭脳明晰で志も高いDのような若者が、どんどん社会に出て行くことを、とても頼もしく感じたのでした。

ひもじい思い。

二丁目のぺんぺん草で飲んでいたら(また!)、
今までに、本当にひもじい思いをしたことがあるか?という話になった。
A「大阪で学生の頃、お財布を落としてしまって、家に帰って小銭を掻き集めたら1500円しかなかったの。
次のバイトの給料日までだいぶ日にちがあるから困ってしまい、日雇いのバイトに行ったら、大阪の外れの現場までは自費で行けと言われたの。
そんで往復を計算したら、1500円以上かかるから帰って来れないことがわかって、しょうがなく事務所に頼み込んだの。
交通費がないので現場に行けないからなんとかしてくれって(笑)」
僕「そんで、そんで?」
A「お金もないのに、仕事に来るな!
って怒鳴られたんだけど…よく考えたらお金がないから仕事に来たのに…
なんとか食いさがったら、2千円貸してもらえたの」
僕「よかったね!!!」
ぺんぺんのひろしさん「まだ若い頃、大塚に住んでいたのよ。
家中小銭を掻き集めたら、15円だけあったの…
お腹が空いて空いてどうしようもなくて、そのお金で友達に電話したのよ。
お金がないから何か食べさせて!って…
そしたらその友達が新宿に住んでて、家に来いって言うのよ…
でも、大塚から新宿まで行けるお金がないの…電話もしちゃってあと5円とかしかなかったから…
どうしようもなくて途方に暮れて、家中を見回したら、映画や芝居ののパンフレットが沢山あったの…
それをダメ元で古本屋さんに持って行ったの…そしたら、ほんの少しお金が出来ちゃって、新宿まで行くことが出来たの…」
みんな「よかった〜」
ひろしさん「友達が何か出前を頼んでやるって言うから、あの頃もりそばが一番安くて、もりそばって言ったの…
そしたら友達が1つじゃ出前してくれないから、もう1つ頼めって言うのよ…
親子丼…って思ったけど、高いから玉子丼をお願いしたの。そしたらあいつは自分用にかつ丼頼んでいて、はじめっから1つじゃないじゃないね〜」
僕「いい人だね」
ひろしさん「でもね、あいつったらね、私が帰るときに私の目の前で、百円玉を十個縦に積み重ねて3つ作ったの。
そして、あ、こんなには要らないわね…って、一山隠すのよ!あの女!
それでも、そのふた山を持って帰ったの…
ありがたかったわ…」
この話は、僕は何度も何度もひろしさんから聞かされているんだけど、ひろしさんのキャラを見ながら聞くと、毎回馬鹿みたいに笑ってしまって、最後にはなんだかじんわりと来るのだ。
いつか、そんな友人のようになれたらいいなあと思う。
ぺんぺん草って、とにかく最高…って思いながら、ふらつきながら家路に着いたのです。

目に見える幸福。

天国というのがあるとしたら、こんなところかもしれないな…。
そんな風に思える結婚パーティーが、豊洲でおこなわれた。結婚したのは、『irodori』のシェフであるもっちゃんと、映像編集の仕事をしているらおちゃん。
ふたりの友人たち200名以上が、ふたりの好きな青色のものを身につけて集まった。
会場は、ところどころ笑いで包まれて、誰も彼も、何もかもが幸福そうに見えた。
もっちゃんも、らおちゃんも、彼らはふたりともストレートなのだけど、周りには沢山のセクシュアルマイノリティの友人たちがいて、セクシュアリティなど関係なくみんなが緩やかに繋がっているのだ。
ご両親もふたりに、セクシュアルマイノリティを含めた沢山の友人たちがいるのを目の当たりにして、とても喜んでいらっしゃった。
こんな時間が、ずっと続けばいいなあと、幸福をみんなで分かち合い、かみしめた。

SAANA JA OLLI

サーナ ヤ オッリは、フィンランドのデザインユニット。
この不思議なグラフィカルな文様を見た時に、「浴衣にしたら、かわいいかもしれませんね・・・」と口をついて出た言葉。
そんな一言が発端となり、僕の浴衣を作ってくださることに。(ありがたすぎる・・・)
先日、ここにも上げた墨田区の呉服屋さんに採寸に行き、この100%ヘンプ繊維という素材がどれくらい縮むのだろう・・・などと話し合いながら、やっとのことで出来上がった浴衣が、ついに家に到着したのです。
今年の夏は終わってしまったけど、来年の夏、この不思議な柄の浴衣を着ることを、今から楽しみにしている。
★SAANA JA OLLIhttp://www.ecomfort.jp/SHOP/101433/list.html

最後の昼餐。

料理をしながら読んだりしたので汚れてしまった

建築家である宮脇檀による軽やかなエッセイ。
60歳を迎えた時に、ゴルフ場の会員権がキャンセルになりお金が戻り、それと引き換えに手に入れた青山の広いバルコニー付きのマンションで暮らす日々が綴られている。
宮脇檀のエッセイは、インテリアや旅行や食べることが好きなら間違いなく好きになると思う。
中でもこのエッセイは、自分の家の設計から始まり、バルコニーの植物の選択から配置、週末のたびに繰り広げられる手作りの料理のパーティーと、季節が進むごとに彼と内縁の彼女が人生を謳歌している様子が伝わってくる。
イラストは彼女が描いていて、またそのイラストにさりげなく歌が詠まれているのだ。
僕は昔、この本を読んだ時にとても感動して、当時の恋人のMと何度も一緒にこの本を読んだのを思い出す。
イタリア人のように美しく生きることにこだわり、旅に生き、食を何よりも楽しみに生きた宮脇檀の生き方は、僕たちの心をがっちりとつかんだのだった。
残念ながら、宮脇檀は癌で亡くなってしまったのだけど、彼の遺した素晴らしいエッセイは、いつまでも僕のお気に入りで、晴れた週末なんかに取り出しては、懐かしく読み返している。
時々Mのことを思い出しながら。

消えてゆく記憶。

友人Mのお母さんは90歳。先日お見舞いに行った時には、僕のことさえもはやわからず、ここ数ヶ月でぐっと痴呆が進んだように思っていたのだけど、Mが数日前に会いに行っていた時は、百人一首の上の句を言えば、その続きをスラスラと答えていたそうだ。
僕の祖母も90歳を過ぎて痴呆になった時に、小学校で習ったのか唱歌だけは覚えていて、よく歌っていたのを思い出す。人には、ずっと忘れずに覚えていられるものがあるのだろう。
その友人Mと、5年前くらいだろうか、いつものようにニューヨークに一緒に行き、ついでにワシントンD.C.に二泊くらいで芝居を観に行ったことがあった。
その時にワシントンD.C.を案内してくれた韓国系アメリカ人のRが先日東京に遊びに来ていたのだけど、Rを連れてMの店『Bridge』に遊びに行ったのだけど、なんと、MはすっかりRのことを忘れてしまっていたのだった。
ご飯を食べて、ワシントンD.C.の観光名所を巡り、博物館にも行き、ゲイバーにも連れて行ってもらい、ホテルに帰ったらMがスマホを店に忘れていて、それを連絡するとRがわざわざ店に行って持って来てくれたのだった。
Mは、その一部始終を忘れていて、いくら説明しても思い出せないし、Rの恋人のアメリカ人のTのことも、まるで記憶にないようだった。(驚くことに、Mは観たミュージカル以外のことは全て忘れてしまっているみたい)
ここまで書いておいて、これではまるで、”Mはただの痴呆”のような話に見えるけど、そうではなくて、僕もよく考えてみると、ワシントンD.C.の旅行のことは所々うる覚えなのだ。
ホテルに豹柄のバスローブがあって、「女豹になれということか…」と思ったこととか、名所でもあるリンカーンの説明があるところや博物館は覚えている。
でも、5年前の旅の記憶を事細かに思い出せるかと言うと、全然思い出せないことの方が多いのだ。
人間は、毎瞬毎瞬目の前の出来事に触れているのだ。そのすべてを覚えていたら、恐らくすぐに気が狂ってしまうに違いない。(きっと思い出せないだけで、潜在意識の中には、経験したすべてがそっくりそのまま残っているのかもしれないのだけど)
でも、たとえ記憶の底から思い出すことが出来なくなってしまうとしても、旅に出たり、美味しいものを食べたり、誰かと笑ったり、様々な体験をするということは、僕たちにとっては宝物のように思える。
いつか時が経って記憶として蘇ることがなくなったとしても、体験しているその時は、僕たちはきっとキラキラと輝いているのだ。

ゲイの鑑。

ぺんぺん草で飲んでいたら、もう20年以上前からよく知っているTKが入って来た。
鼻息荒くTKが言うことには、これから家族会議をやるのだそうだ。
家族会議と言っても、TKは49歳くらいで年下39歳くらいのKYと二人暮らし。昔はTKのお母さんも一緒に暮らしていたから、お母さんも交えて何か話し合うのかなと思ったら、KYの長崎のお姉さんの息子27歳を春からしばらく預かっているのだとか。
その27歳の甥っ子の進路について、TKとKYと甥っ子の三人で話し合うらしい。
僕「いいなぁ、27歳なんて…年齢だけでイケるんだけど…」
TK「いやぁそれが、若い子なんて本当に臭いだけだということがよーくわかったわ。本当に死ぬほど臭いのよ…若い子の臭いがいいなんていう人の気がしれないわ!」
僕「それにしても、そんなに大きな子、何を話し合うことがあるの?」
TK「それが、海外に勉強に行きたいんだって言うのよ…それで、一度チャンスをあげてテスト受けさせたんだけど、6点取らなきゃいけないのに5点しかとれなくて…
あの子、馬鹿正直だから、勉強しなかったことも素直に言うし…」
僕「それで、KYはどんな感じなの?」
TK「KYは、私が甲高い声で散々わめき散らした後に、最後に出て来て一言言うのよ。まるでお父さんみたいに威厳を持って…
なんだか私が意地悪なお母さん役みたいになっちゃってんのよ!頭にくる!」
僕「もしかして、学費も出してあげるの?」
TK「どうせ私たちゲイなんて、自分だけ美味しいもの食って、旅行ばっかり行くくらいなんだから、ちょっとは家族のために何か出来たら…と思うのよ…
だいたいあんたも同じでしょう!美味しいもの食って、旅行ばっかりして…」
その臭い甥っ子が(笑)、ゲイのおじさんカップルと暮らしていること自体、ちょっと信じられないのだけど、ゲイのおじさんたちは甥っ子をなんとか海外に留学させてあげようと必死なところもなんだかまるで映画みたいだ。
TK「狭いところで三人で暮らしていてもう大変なのよ!私たちその子がいるからいちゃいちゃすることも出来ないし…」
僕「あんたたち、長くつきあってて、まだいちゃいちゃしてんの?気持ち悪い!」
そんな話をしながらみんなで大笑いしたのだけど、そんなことをしようとしているTKとKYカップルのことを、なんだかすごいなぁと思ったのです。
まさに、ゲイの鑑。

ゲンちゃん。

今から15年くらい前だろうか、二丁目の新千鳥街の中、ぺんぺん草の向かいに、伝説的なバー『GEN PAPA』があった。
狭い店内にムキムキやらガチムチ系の男たちが集まり、トイレの中は外国のゲイポルノ雑誌から取られたヌード写真が張り巡らされていた。
マスターはゲンちゃんで、身体を鍛えて、レザーやら、袖を切ったネルシャツやら、ゲイゲイしいコスチュームでお客さんの気分を盛り上げていた。
なんでGEN PAPAという風にパパがつくのかというと、ゲンちゃんは昔は女性と結婚していたことがあって、子どもがふたりいたから。
週末はあまりにも人気で、お客さんがぎゅうぎゅうになって入れない…なんていう状態のまま7年間営業をしたのち、ゲンちゃんが身体を壊したこともあり、閉店となったのだった。
そのゲンちゃんが、もう一度お店をはじめようと思い、身体を鍛え直していると聞いたのは、ここにも書いた少し前のこと。それからどうなったのかな…と思っていたら、『MAGMAG』という店で火曜日だけ、一人で入ることになったそうだ。
お店を覗くと、元気なゲンちゃんが迎えてくれた。
ゲンちゃんとは、その昔、僕が当時つきあっていたMと一緒に、修善寺や京都など、旅行に行ったことがある。当時の話を懐かしくしながら、今となっては亡くなってしまったMのことをふたりで思い出した。
大病を患ったゲンちゃんが、数年を経たのち、今こうしてもう一度お店をはじめようと思ったことが、僕にとってもとてもうれしいのだ。
人生、山あり谷ありだけど、またこうして内側から輝くようなゲンちゃんの姿を見ながら、お酒をゆっくりと傾けた。
★MAGMAG(MAG2と小さな2がサインになっている)新千鳥街。AiiRO CAFEの右側を入った通りに面した2階。http://magmagtokyo.web.fc2.com