手を伸ばせば。

僕の部屋は、マンションの4階なのだけど、廊下から下を覗くと、外に面した駐車場が見える。
夜に帰ってきて歩きながら下を見たら、3つ下くらいの会社の元後輩W夫婦が歩いていた。(彼は随分前に会社を辞めて、学校の先生になってしまった)
かつては表参道の一等地に広い土地を所有していた後輩の一族は、お父様の事業の失敗の後その土地を追われ、3年前くらいに僕と同じこの古いマンションに転がり込んできた。
引っ越して来た時は、偶然マンションで出くわすなり、「事業が失敗してここに引っ越す羽目になっちゃいました・・・」とバツが悪そうに僕に言ったのだけど、「ここは東京で一番いいところだよ」と僕は笑って答えたのを覚えている。
その後、なかなか会うこともなかったので珍しいと思い何気なくふたりを見ていた。(もちろん彼らは、僕が上から見ていることなど知らない)
すると、少し前を行く彼が、後ろも見ずに左手を後方に差し出した。
ちょっとしたら奥さんはそれに気づいて、少し早歩きして右手を伸ばして旦那さんの左手に手を差し出した。
この広い世界において、手を伸ばせば、その手をつないでくれる人がいるということは、それだけでなんと幸福なことだろうか。
家も財産も何もかも失ったであろうWは、たいせつな宝ものだけは手放さなかったのだ。

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