アジア料理。

バインセオのランチ

排骨チャーハンと担仔麺ランチ

タイカレーランチ

ここ数日、昼間は少しずつ暑くなって来て、湿度も上がって来たようだ。
僕が、アジアに旅行をするようになったのは、ここ5年くらいなのだけど、中でも台北には昨年だけでも8回行ったくらい、友人も出来、居心地のよさを感じている。
その前は、ソウルに男が出来て通い詰めたり、中国に男が出来ていくつかの都市に行ってみたり、その男とタイのサムイ島に行ってみたり、昨年ベトナムのホーチミンに行ったのも面白い経験だった。(振り返ってみると、全部男がらみのような気もする…(。-_-。))
アジアを旅行していても、楽しみは俄然食べることだ。アジア独特の、高温で湿気の多い季節を乗り切るために、それぞれの国で料理は進化を遂げて来たのだろう。
東京でも、昔はアジア料理なんて、中華か韓国かタイかインドが少しあるくらいだったのに、このところ、ものすごい勢いで増えていると思う。
フォーだって、バインセオだって、ガパオだって、担仔麺だって、普通に食べることが出来るのだから。
Kと付き合い出して、僕のアジア男探しの旅にも、ピリオドが打たれた。『なんだ、男は、九州にいたのだ!』と。
それでも時々、アジアの雑踏がちょっと懐かしくなる時もある。友人は、台湾にKも一緒に行けばいいじゃん!と言う。でも言ったそばから、『あ、でも、Kと一緒に行くということは、お弁当を持って、レストランに行くようなものね…』と言われる。
今のところ、お弁当を持って、レストランに行くのは、10月末のパレードの頃の予定だ。
時々、アジアが懐かしくなったとしても、アジア料理を食べてなんとか乗り切ることにしよう。

苦手な人はいますか?

飲みに行ったら、前から知っているけど、なんだか面倒くさそうで、今までほとんど会話をしたこともなかった人に、突然話しかけられた。
『愛 アムール』ご覧になりましたか?
僕は、「凄い映画だと思うし、監督ハネケの意思を感じるなあ、好きとか嫌いではなく、将来の自分の姿を見せつけられたような凄い映画」とこたえた。(『愛 アムール』については、このブログの1/29に取り上げてありますhttp://jingumae.petit.cc/banana/20130129000000.html)
僕は、誰とでも気軽に話す方だと思うし、話しかけられやすい方だと思う(道を聞かれることが尋常でなく多い)けど、ごく稀に、自分からは近づかない人もいる。
色々考えてみると、彼の場合は、洋服があまりにも華美だったのが気になっていたようだ。
ジャケットの上から、エルメスの大判のスカーフを身体にまとっている感じとでも言おうか。全身からは、むせかえらんばかりの香水の匂いがするし、時々、つば付きの帽子まであったりするのだ…
でも、実際に話をしてみると、映画の細かいセリフまで覚えていたり、僕とは違う視点だけど、映画の捉え方が彼独自で、とても興味深い人だということが分かった。
誰かを見て、苦手だなぁと思ったり、あまり好きになれないと思う時は、その人の持っているその苦手な部分が、自分の中にもあることがある。
フェミニンな装いの男の人を見て、居心地の悪さを感じたら、自分の中にもフェミニンな要素があって、それを自分が受け入れていないという証なのだ。
それが分かり、その人の苦手な部分を受け入れることが出来ると、自分も自分の中の苦手な部分から解放される。
世界はいつも、自分の内面を映し出して見せてくれていることがわかる。

自転車。

ベランダのジューンベリーの実が色づきはじめた。
買ってから15年くらい経つプジョーの自転車が、
ここ何年か、駐輪場に置きっぱなしになっていた。
修理をお願いしたところ、
両輪を付け替えるので1万5千円と言われた。
何年も乗っていなかったため、錆びてしまい、
今は哀れな姿になってしまっている。
洋服でも、鞄でも、靴でも、食器でも、洗濯機でも、家でも、
物は、人間や、動物や、植物と同じように、
注目されなければ、離れていってしまうと感じる。
適度な関心と愛情を持って接している物と、
まったく無関心になってしまった物とは、
その物との精神的な距離感が全然違ってくるから不思議だ。
そして、遠く離れてしまった物とは、
その距離を縮めるのはなかなか難しい。
かわいそうだけど、粗大ゴミに持って行ってもらう手続きをしたら、
なんだか急に、昔、自転車ばかり乗っていた生活を思い出し、
新しい自転車を買おうかとあれこれホームページを見てみる。
今の所、迷っているものは、イタリアのABICIhttp://www.abici.jp/
というブランドの町乗りのもの。
よくよく考えてみたら、世の中の流行とは逆行して、
自分があまり早く走ることに興味がないということが分かった。
身体は、あまり前傾にならずに、タイヤは細すぎず、
雨の日でも乗れて、鼻歌でも唄いながら走れる自転車が理想だ。
みんなは嫌がるけど、籐の籠がついていてもいいかもしれない。
どうせ、ネギや大根やセロリを入れて走るのだから・・・笑。
自転車を捨てることを、Kに告げると、Kからメッセージが届いた。
「ちょうど、自転車が欲しいと思っていたんです。
今度、宮崎で会う時に、乗ってきてください」

『ビル・カニンガム&ニューヨーク』『愛さえあれば』

ビル・カニンガム&ニューヨーク

愛さえあれば

★ビル・カニンガム&ニューヨークhttp://www.bcny.jp/
NYタイムズで、道ゆく人とファッションを長年追い続けた写真家のドキュメンタリー。
正直で、人間味に溢れる優しいビルは、人を仕事や有名無名によって判断することなく、お金に縛られることもなく自由に生きている。その姿は、清々しく、羨ましくもある。
信念を持ち、贅沢をせず、人生のすべてを仕事に捧げる生き方は、かっこいいと思うけど、「ゲイですか?」と突っ込まれても、ハッキリしないまま…
「恋愛などしている時間は無かった」と言い張るけど、昔、何がしかの恋愛はあったのだろう。そうでなかったら、あれほどまでに人に対する優しい視点を持つことや、人物だけを追い続けることなど、出来なかったのではないだろうか?
もしも、ニューヨークでビルに会ったら、抱きしめたくなるようなかわいいおじいさんだった。
★愛さえあればhttp://www.aisaeareba.jp/
イタリアの風景が出ているだけで、迷わずその映画を観たくなるから不思議だ。アカデミー外国語映画賞に輝いた、『未来を生きる君たちへ』の女性監督スサンネ・ビアが贈る、大人のラブコメ。
アマルフィ海岸の起点の町、ソレントで結婚式をあげることになった子どもたちの式に出席するべく、北欧からイタリアに行く二つの家族の話。
『未来を生きる君たちへ』にも出ていたトリーネ・ディアホルムというお母さん役の女性が素晴らしかった。そして、ピアース・ブロスナン。年をとってもファッションブランドのモデルのようだけど、やっぱりかっこいいなぁと思う。
予告だけでほとんどすべて分かってしまうような映画だけど、実は、女性にとって、とても繊細なテーマにのぞんでいたし、美しい景色とともに見応えがあった。
あれほど自分の好きなイタリアのアマルフィ海岸の景色を見せつけられると、「何もかも捨ててイタリアに行き、ワインやパスタを食べながらこのままずっとイタリアで暮らしたい…」と夢想してしまった。
いつかイタリアの田舎町に家を持ち、安穏と暮らすことができますように…。

母をたずねて。

久しぶりに、母の家に行った。
僕が今のマンションに引っ越す時に、植物が置けないので、沢山の植物を、母の家に無理やり運んだこともあり、色々な花が咲くたびに、見に来いという電話はあったのだけど、なかなか予定を合わせられずにいた。
僕が小さな頃の写真を、何枚か揃えて僕に渡すように用意してあり、今は空き家になっている一軒の家も、売りに出すことを考えていると言う。
母は、71歳だけど、この頃少しずつ、自分の身辺整理を始めているような気がする。
僕の好きな唐揚げや、天ぷらや、大根の葉の煮浸しや、サラダをたっぷり用意して、帰りにも、畑で採れた沢山の野菜を僕に持たせてくれた。
梅雨に入る前のこの季節、世界は美しさに満ちている。
バラは咲き乱れ、樹々は新緑で萌え、遠くから、小学校の運動会の音が聞こえて来た。ジョギングする人も、心地よさそうで、自転車に乗る親子も、楽しそうに横を通り過ぎてゆく。
今日のような日は、そんな日常の何気ない光景が、まるでスローモーションのように感じられるから不思議だ。
遠く、僕の姿が見えなくなるまで手を降り続ける小さな母を見ながら、何度も思った。
あぁ、世界は、なんて美しいのかと。

SOCIALIZER

前回2/15にもここに書いたけど、数人のオーガナイザーが友人たちに声をかけて、原宿の見晴らしのよいバーに集うというパーティーの二回目が開かれた。
今回も、100人を超す人が集まり、友達の友達などと、話が繋がり、偶然集まった者同士の緊張感も、緩やかにほどけていった。
僕たちは、入場料を払い、思い思いの酒を飲み、気楽に語らい、特に出し物などのない穏やかな時間を共有しながら楽しむのだけど、入場料や食事、飲み物、特性カクテルなどのプラスになった収益は、すべてアフリカのLGBT団体を支援するために募金される。
本当に、驚くことなのだけれども、アフリカのウガンダなどでは今も、同性愛者は死刑になるという。こういった世界の現実を知ることはとても大切なことだと思う。知ることによって、少しでも、何かできることに繋げていけるかもしれないから。
昔は主に新宿2丁目で、ゲイだけで集まっていたことが多かったように思うけど、今は新宿2丁目だけでなく、ゲイだけの縛りではなく、様々なLGBTや、その周りの人たちがこうして集い、自由に話すようになって来たことを、改めていいなぁ…と思える、穏やかな夜だった。
次回は7月にあるようなので、行きたい人は、声をかけてくださいね。

宝もの。

会社で、すれ違いざまに、
入社2年目の女の子Aに呼び止められ話しかけられた。
「今週、朝からTさんが居なくて、すごく寂しかったです。
会社ががらんとしていました」
僕は、今週は撮影やクライアントへの立寄が続いて、
前半はあまり席にいなかったのだ。
いつもだと、だいたい8時半から9時には席にいるので、
うちの会社の始業時刻は9時半なので僕が周りでは一番乗り。
その後に新入社員が来る感じなのだ。
自然と、彼らと挨拶をするし、ランチに一緒に行ったり、
ネットやパソコンで分からないことを聞いたり、
最近の若者のことを聞いたり、コミュニケーションは沢山とれる。
中でも、2年目になったAは、子犬にように僕につきまとい、
映画を薦めると、すぐに迷わず観に行くし、
その感想もうれしそうに伝えてくれる。
朝、挨拶をするときも、何か話しかけても、
心から喜んでいるように、顔がきらきらと輝く。
それは、恋愛感情ではなくて、
一緒に仕事をしたり、たわいもない話をしたり、ランチに行ったり、
同じ時間を過ごすうちに、芽生えた家族的な絆のようなものだ。
僕が入社した時に、上司に言われた言葉がある。
「君は、僕たちの宝ものだから」
昔は、その言葉の意味が分からなかったけど、
会社で何年も生きているうちに、
そんな言葉をわざわざ言ってくれた上司のことを思い、
その有り難みをしみじみと感じるようになった。
忙しかったり、自分に余裕のない日でも、
彼女のまっすぐな微笑みを見ると、勇気がもらえる。
今度、一緒に飲んだ時に言ってみよう。
「Aは、僕の宝ものだよ」と。

自分と違うものを、受け入れること。

週末、九州で『トーチソングトリロジー』を、KとふたりでDVDで鑑賞した。
僕はこの映画を、10回以上観ているのだけど、
観るたびに、よく出来ていると台詞に感心するし、
何度観ても泣いてしまう場面がある。
マシュー・ブロデリックが演じるアランと主人公は、
養子をもらえることになり、NYで新居に引っ越しをして
幸福な暮らしをはじめることになるのだけど、
アランは、ゲイを憎む人たちのホモフォビア (Homophobiaとは、同性愛、または同性愛者に対する恐怖感・嫌悪感・拒絶・偏見、または宗教的教義などに基づいて否定的な価値観を持つこと)によって、殺されてしまう。
主人公が、お母さんと一緒にお父さんのお墓参りに行くのだけど、
そのお墓には、亡くなったアランも眠っている。
主人公がアランに対してお祈りを捧げている時に、
母親は、自分の35年間連れ添った夫の死と、
お前の同性愛の恋人の死を一緒にしないでくれと言ってけんかになる・・・
このくだりは、歴史に残ると言ってもいい、母親とゲイの息子との、
それぞれの尊厳をかけた台詞の応酬だ。
この映画を観て、泣かないゲイはいないのではないだろうか。
世界では、同性婚などの権利が拡大する一方で、痛ましい事件が起きている。
ロシアで、同性愛者だと告白した23歳の男性が、知人らに暴行され死亡した。
ロシア正教会のキリル総主教は、同性愛は薬物依存や売春などと同様、
ロシアにとって最大の脅威の1つだとコメントしている。
大統領は、ロシアでは同性愛者に対する差別はないとしながらも、
「同性婚で子どもが生まれないことには疑いの余地はない」と述べ、
同性愛が国の人口にもたらす影響について懸念を示した。
自分と違うものを、認めること、受け入れることは難しい。
世界に戦争が絶えないのも、自分と違うものを受け入れることができないからだ。
地球上から、このような事件が、一刻も早く無くなることを願っているし、
我々にももっと、できることがあるのではないかと考えている。
※[モスクワ 13日 ロイター] ロシア南部のボルゴグラードで9日、同性愛者だと告白した男性が知人らに暴行され死亡した。被害者となった23歳の男性は、同性愛者だと告白した直後に、複数の知人から暴行を受けた。肛門にビール瓶をねじ込まれ、服に火を放たれ、最後は石で頭を殴られて絶命した。http://news.livedoor.com/article/detail/7673996/

マリーゴールド。

シルバー・カーディナルという珍しいヨーロッパのカエデを買ったら、
配送されて来た段ボールの中に、マリーゴールドが一つ、
光輝くように添えられていた。
黄色とオレンジの間の色は、なぜか今、僕が一番好きな色だ。
金額にすると、大したことではないのだろうけど、
こういう心遣いは、時にとてもやさしく感じられる。
箱から出した、小さなマリーゴールドは、
陽だまりのように温かい。

100センチのベッド。

ふたりで旅行をして、ホテルで寝る時はいつも、Kが隣りにピッタリとくっついてくる。
ツインの部屋に泊まった時にも、片方のベッドは使わずに、一つのベッドでふたりで眠る。
Kの家に泊まりに行くと、壁に横付けされたKのシングルベッドに、ふたりで眠ることになる。ベッドの幅は、およそ100センチ。
僕がベッドから落ちてはいけないと言って、僕を壁側に押しやり、Kは早々に眠ってしまう。
寝つきの悪い僕は、100センチのベッドでふたりでピッタリと横にひっつきながら、「どんな状態でも、人間は眠ることが出来るのだ…」ということを証明しようと心に決める。
途中、何度かトイレに立つ時は、Kの上を跨いで立つ。
朝方、目覚ましで驚いて目を覚ますKは、僕がトイレに立ったことなど、全く気づいていない…。
そんなKの、単純なところが、僕は好きだ。
(また、おのろけになってしまった…笑)